■コミュニケーションとは新しい関係性の中で自らを変えていくこと
「コミュニケーションとは新しい関係性の中で自らを変えていくこと」というのが、私のコミュニケーションを考える時の出発点です。
しかし、どうも世間では反対のようで、「コミュニケーションとは相手を変えること」と受け止められているようです。
しかしそれでは、コミュニケーション不全は広がる一方でしょう。
たとえば、最近話題になりだしている厚労省元局長村木厚子さんの事件ですが、部下の元係長が発言は当初の捜査段階の検察調書に関連して、こう述べていると新聞に出ています。
上村元係長は、昨年5月に大阪地検特捜部に逮捕された後の取り調べ状況を問われ、「検事は紳士的だったが、自分の判断でやったと説明しても調書に書いてくれなかった。厚労省の組織犯罪にしたかったのでは」と主張。〈朝日新聞2010年2月25日夕刊〉「自分の判断でやったと説明しても」、検察は受け容れなかったのです。
つまり自分の想定している内容でない情報は受信しないというのが、彼らのコミュニケーションの姿勢です。
これはなにも大阪地検特捜部だけの話ではありません。
私が知る限り、ほとんどの人のコミュニケーション姿勢がこのパターンです。
みんな自分の見たい世界、見える世界しか見ようとしないのです。
小沢さんや鳩山さんの説明責任はどうでしょうか。
マスコミはほぼ例外なく、大阪地検特捜部スタイルです。
国民のほとんども同じです。
しかしこれは、今に始まったことではありません。
たぶん近代の始まりと共に、あるいは近代国家の成立と共に始まった文化なのでしょう。
あるいは共同体を形成するということは、そういうことなのだと、今読んでいる「近代政治の脱構築」の著者エスポジトは書いています。
もちろん明示的に書いているわけではありませんが。
たしかにさまざまな人の言うことを聴いていたら、身が持ちませんし、動きが取れなくなりかねません。
そこで発達した防衛機制は、相手の話も聞かない代わりに、自らの意思も持たないという方策です。
そこで近代国家の国民は主体性を放棄し、思考を停止して従順な幸せに逃げていくわけです。
ますますコミュニケーションは形式化してしまいます。
そうなるといよいよITの出番です。
形式化した情報は機械処理ができるからです。
情報に関して一番わかっていないのは、IT関係者ではないかと私は少しひがんでみています。
私が非情報化革命というのはそういうことです。
それにしても、と私は思います。
もう少し相手の話に耳を傾けると、世界は広がり、人生は豊かになるのに、と。
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