■節子への挽歌887:「死別した人は未婚」
節子
ある企業関係のアンケートに答えていたら、属性の所で「あなたは結婚していますか」という項目があり、そこに、「死別した人は未婚」と答えてくださいとありました。
ちょっと抵抗がありますね。
企業関係のアンケート調査では、伴侶がいるかどうかが問題なのでしょう。
個人の個別事情を消去して量(数)で考えるのが産業の発想です。
すべての人間は「消費者」として扱われるのです。
そんなわけで、私は最近「未婚者」というわけです。
なんだか奇妙な気もしますが、そもそもが「既婚・未婚」という言葉で人の属性を区分するところに問題がありそうです。
「結婚」は一時の体験でしかありません。
そこから始まる生き方は実にさまざまです。
結婚しても何も変わらない人もいれば、結婚によって人生が全く別のものになる人もいます。
「家制度」があり、社会の単位が「個人」ではなく「家」だった時代には、結婚に大きな意味がありました。
しかし昨今の日本の状況では、結婚はさほどの意味を持っていないのかもしれません。
節子と私にとっても、たぶん「結婚」は大きな意味を持っていなかったのです。
意味を持っていたのは、二人で新しい生き方を創りだすことでした。
今様の言い方をすれば、自立かもしれません。
それぞれの親の文化の中で生きてきた人生を、自分たちの人生に変えたのです。
それには「結婚」が不可欠だったわけではありません。
ただ私の場合は、結婚がその大きな契機になったということでしょうか。
あまり考えることなく、結婚を所与のものとして受け止めていた気がします。
それは節子においてもそうでした。
節子も私も、あまり「結婚」にはこだわっていなかったような気もします。
その結果、娘たちには申し訳ないのですが、おそらく「少し変わった家族」になってしまったのです。
娘たちはそれぞれ友だちから、わが家、とりわけ私のことを「少し変わっている」と言われていたようです。
そんなに接点はなかったはずですが、本質を見抜く子どもたちには、わが家の「おかしさ」が感じられていたのかもしれません。
私たちにとってはあまり「意味」を感じていない「結婚」でしたが、結婚した結果、実際には私たちの人生は一変してしまったのです。
結婚する前とした後の私は、ほぼ全く別の人間といえます。
節子がいなくなっても、そういう意味では、何ひとつ変化はありません。
今もなお私は、節子の伴侶であり、節子は私の伴侶なのです。
まあ少し困ることはあるのですが。
またなにやらわけのわからないことを書いてしまいました。
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