■節子への挽歌897:無明住地煩悩から住地解脱へ
勝鬘経に、「一切の煩悩は、皆無明住地を因とし、無明住地を縁とす」とあります。
住地とは、ある特定の対象に心を止めることです。
心を止める結果、それに束縛されて心身は自由を失います。
そのため、生きている世界が見えなくなってしまう。
つまり、そこから煩悩が始まります。
無明とは「明になし」、つまり迷いです。
江戸初期の沢庵禅師が武道の極意を語るのに、この言葉をつかったようです。
刀で立ち向かうとき、相手の切太刀見て、それに合わそうとすると、肝心の自分の太刀裁きができなくなってしまい、結局は相手に主導権を取られてしまうということです。
相手の動きに対応しようとすれば、決して主導権はとれません。
特定の「一事」にこだわらずに生きる。
これが私の目指す生き方の一つです。
それはとても難しいことで、なかなか実現できませんが、できるだけそうありたいと考えています。
そのために専門性もなければ、成果もあがらないというわけですが、自分としてはまあそれなりに納得できる生き方です。
ところが先日、改めてこの言葉に出会いました。
私にとっては全く別の次元だと思っていたのですが、私もまた「節子」に心を止めすぎて、世界が見えなくなっているのではないか、と思い出したのです。
結論を先に申し上げれば、決してそんなことはないのですが、無明住地煩悩とどこが違うのかを、自分なりに納得しておきたいと思い出したのです。
華厳経にインドラの網という話があります。
インドラの網とは「場所的にも時間的にも遍在する、互いに照応しあう網の目」のことで、現代風にいえば、ホロニックな世界観です。
それらを組み合わせると、こういう言い方ができます。
ある特定の対象に焦点を合わせると、そこから世界が見えてくる。
ここで重要なのは、「心を止める」のではなく「心を対象に入れ込む」ことです。
「入れ込む」ことの難しさは、私はこれまでも何回か失敗的に体験しています。
しかし、もしかしたら、今回は成功しそうな気もしています。
「節子」に心を入れ込んで、無明煩悩から抜け出ることができそうな、そんな気が最近しだしています。
まさに「住地解脱」です。
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