■節子への挽歌893:黄泉と常世
昨日の続きです。
彼岸の節子が私の中に入ってきたために、夜が明るく感じられると書きました。
彼岸は日本では「黄泉(ヨミ)の国」といわれていました。
古事記には黄泉の国のことが出てきますが、あまりイメージはよくありません。
しかし、「ヨミ」とは「ユメ」、つまり「夢」のことだという説もあります。
死が「夢の世界への移住」だと考えると、なんだかとても安堵できるかもしれません。
もっとも私の見る夢は、サスペンスやSFものが多いので、夢の中で安堵出来ることは少ないような気もしないでもありませんが。
私の夢は不思議な夢が多いのです。
彼岸に向かう列車の駅の夢も時々見ます。
それが実にライブなので、目覚めた時にその駅名が実際にないかどうか、ネットで調べたことさえあります。
銀河鉄道に乗ったこともあります。
「ヨミ」は「ヤミ(闇)」からきたのだという説もあります。
そうなると夜は彼岸への入り口です。
感じとれる人には、彼岸からの導きの光が感じられるかもしれません
「ヨミ」は「ヨモ」(四方)からきたという説もあるようです。
生活圏外を表わすという解釈だそうです。
彼岸につながる言葉には、もう一つ「常世(とこよ)」があります。
概念的には、このほうが彼岸に重なります。
常世は、永久に変わらない世界であり、そこには因果律も時間軸もないとされます。
移ろいやすい「現世」に対峙する世界です。
「常世」は「常夜」とも表記されます。
夜の状態でしかない世界であり、そこから、「常世」は死者の国や黄泉の国とも同一視されるわけですが、折口信夫は、「常世」こそ海の彼方、または海中にあるとされる理想郷だとしました。
それらは別に食い違っているわけでもなく、彼岸を理想郷と考え、夜(暗闇)を心の平安を与えるものと考えればいいだけの話です。
しかし私たち、現世を生きるものには「闇の光」を体感できないためか、「夜」の「闇」は不安を与えるものです。
なぜそうなのか、それを考えていくと、生と死に秘められた謎の一端が見えてくるような気がします。
この挽歌も、なんだか小難しくなってきていますが、彼岸が垣間見えたような気がしている私にはいささか書きたい気分のテーマではあるのです。
でも今回は、こんなところでやめておきます。
| 固定リンク
「妻への挽歌05」カテゴリの記事
- ■第1回リンカーンクラブ研究会報告(2021.09.06)
- ■節子への挽歌1000:パッセンジャーズ(2010.05.29)
- ■節子への挽歌999:新緑(2010.05.29)
- ■節子への挽歌998:花の季節(2010.05.27)
- ■節子への挽歌997:「解けない問題」(2010.05.26)
コメント