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2010/02/22

■節子への挽歌904:節子の生を継ぐ者

節子
最近、「ケア」ということを改めて考え直しています。
この世界に導いてくれたのは節子ですが、節子との辛い体験は私にそれまでとは違ったケアの世界を広げてくれたように思います。

最近、読んだ「アクト・オブ・ケアリング」という本は、これまでの私の生き方を元気づけてくれる本でしたが、その本のことを数回、書きたいと思います。
いつも節子のことを思い出しながら読んでいました。
ちなみに、この本を読む気にさせてくれたのは最近出会った看護学の教授です。
その人は、まさにナーシングの象徴のような人で、不思議な人です。
なぜこの人が私の前に現れたのか、これも不思議な気がしています。

その本に、あるカトリック神学者の言葉が出てきます。

「信仰を持つものにとって、死は決して不条理な生の無意味な終焉を意味するわけではない。信仰を持つものにとって、この生の意味は決して純粋な内在性のうちに達成されるものではなく、常に超越的世界に向けて信仰者を導くものである。従って、死は決して最終的な崩壊ではなく、究極的な実現であり、望みのない不条理ではなく、生の意味の決定的な開示なのである」。
私はキリスト教には大きな違和感をもっていますが、この言葉は心に響きました。
「死は最終的な崩壊ではなく、究極的な実現であり、望みのない不条理ではなく、生の意味の決定的な開示である」。
難解なメッセージですが、何となく最近、私もそんな気がしてきていたからです。
しかし、この文章の主語である「信仰を持つもの」とは誰なのでしょうか。
例えば、節子なのか私なのか。
節子も私も、キリスト教ではありませんでしたが、信仰を持っていたといえると思います。
時評にも書きましたが(できれば読んでください)、私は日本人の多くは信仰心が厚いと思っています。

節子にとって、しかし死は「不条理」な出来事だったことは間違いありません。
節子にはやり残したことがあまりに多かったでしょう。
愛する家族や友人と会えなくなることも、さびしかったに違いありません。
にもかかわらず、私は節子が見事に生き抜いたことを最近少しだけ感じるようになれました。
そして私に、生きることの意味を改めてしっかりと気づかせてくれたのです。
しかし、その気づきについて話し合える伴侶が私にはいません。
おそらくその気づきは、長い時間をかけてケアしあってきた伴侶であればこそ話し合えることなのです。

「究極的な実現としての、そして生の意味の決定的な開示としての死」を分かち合える伴侶が、私にはいないことがとても残念です。
私にできることは、節子の生の意味をもっともっとしっかりと受け止めることなのかもしれません。
節子の生を継ぐ者は、娘たちではなく、私なのですから。
そしてたぶん節子の生を終わらせられるのも、私なのでしょう。

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