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2010/02/26

■節子への挽歌908:愛されただけ愛せるようになる

昨日の話を少し違った視点で続けさせてもらいます。

「人を愛することができるようになるためには、自分が愛されうる存在であると感じさせてもらわなければならない」。
ゲイリンという人の言葉です。

最近、テレビで「シャッフル」という映画を見ました。
もし1週間がシャッフルされて進行するとしたらどうなるか、という発想でつくられたサスペンス映画です。
夫が交通事故で死んだということを聞かされた女性が、それを契機に、曜日が入り乱れて、過去に戻ったり未来に行ったりする話です。
そのトリッキーな構成が面白いのですが、夫の浮気を止めさせたのは妻の愛であり、しかしその愛が逆に夫を交通事故に遭遇させるという、いささか考えさせられる話です。
妻の「ケア」の心が、夫を迷いから覚まさせるのです。
まあこういう映画を観ていても、どこかで「愛」とはなんなのだろうかと考えている自分に気づくことが最近多いのです。

ゲイリンは、愛するためには愛されることが必要だと言います。
子どもを愛して育てなければ、子どもからは愛されません。
それは子どもが、愛するという能力を育てられなかったからだというのです。
保育園の園長を長くやっていた新澤さんは、最初にお会いした時、子どもには「愛のシャワー」を浴びせないといけません、と言いました。
それが、私が保育に興味を持った理由でした。
その言葉を忘れたことはありません。

夫婦はどうでしょうか。
愛されるには愛することが必要だと思いがちです。
私の節子への愛が10だとすれば、節子の私への愛は、その半分の5だったような気がしていました。
しかし、ゲイリンの言葉を知って、私が節子を10も愛せたのは、節子が私を20も愛していたからかもしれないと思えるようになりました。
まあ、そもそも愛を数字で表すなどということは不謹慎なのですが、愛とはまさに双方向的に育ち合っていくものではないかということです。

この挽歌を今もなお書き続けられているのは、それだけの愛を節子から私がもらっていたということなのかもしれません。
節子は本当に私を深く愛していてくれたのだと、つくづく思います。

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