■節子への挽歌898:タッタ
昨日は「心を対象に入れ込む」ということを書きました。
それこそが「住地解脱」への第一歩だと考え出したからです。
対象の向こうに広大無辺な彼岸が見えてくるかもしれません。
まだまだその心境には程遠いですが、そこで思い出したのが「タッタ」です。
タッタは、手塚治虫の作品「ブッダ」に登場してくる人物です。
タッタは手塚治虫が創りだした架空の人物ですが、この作品の方向づけをするほどの重要な役割を果たしています。
彼はインドではカーストからさえも外されたバリア(不可触賎民)の出で、人間というよりも動植物の中で育ったためか、子ども時代には動物に乗り移ることができました。
どんな動物とも顔を見合わせることで、相手の心の中に入り込めるのです。
私ももしかしたらできるのではないかと思い、わが家の犬のチビタに何回か試みましたが、成功しませんでした。
やはり人間の世界に長くいるために生命が閉ざされてしまっているのでしょう。
タッタも、成長するにつれて自分を自然と一体のものとみなすことができなくなり、その力を失ってしまいます。
このタッタの能力がナラダッタの悲劇を生み出します。
ナラダッタも架空の人物ですが、タッタの友の生命を救うために、タッタの能力をつかって動物を酷使し、殺生をしてしまいます。
そのため、師である聖人アシタは、ナラダッタを畜生道に追い落とし、一生をかけて罪を償わせるのです。
人間の視点から考えると、畜生道ですが、子どものタッタの視点に立てば、そこは豊かな理想郷かもしれません。
ナラダッタが、そこで自然の一部であることに気づくのであれば、畜生道とは理想郷にほかなりません。
仏教には大きな矛盾が至るところに込められていますが、それは後世の無妙な僧侶たちが余計な粉飾を付け加えたからだろうと思います。
タッタの話は、いろいろなことを考えさせてくれます。
人が成長するとは自然の存在であることを捨てることなのか。
天真爛漫で天使のような無垢の子どもが、なぜ小賢しい大人になっていかねばいけないのか。
人の一生とは、「解脱」とは全く逆のベクトルをもっているのではないか。
時評編で昨日書きましたが、今、エレン・ケイの「児童の世紀」を読み出しました。
解脱のヒント、社会変革のヒントは、「子ども」にあるのかもしれません。
挽歌のつもりが、なんだか違う方向の内容になってしまいました。
まあ節子は許してくれるでしょう。
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