« 2010年2月 | トップページ | 2010年4月 »

2010年3月

2010/03/31

■節子への挽歌941:変わった者だけが気づく変化

節子
今日は神様がお休みのようです。
パソコンの前に座ったのに、書くことが浮かびません。
まあ、こういう日もあります。

先週のサロンに参加してくれた中村さんが、またやってきました。
一昨日のことですが。
そしてこう言いました。
佐藤さんは変わってしまったのではないかと思っていたが、変わっていないので安心しした。

こういう言葉は、中村さんが初めてではなく、何人かの人から言われています。
みんな私がどう変わったと思うのでしょうか。
この挽歌を読んでいると、悲しみにうちひしがれて、取り付きようがないと思うのでしょうか。
そう思われても仕方がありません。
この挽歌は、読む場所にもよりますが、「節子、節子、とうんざりだ」と思う人もいるのです。

節子を見送ってから、私のオフィスに来る人も少し変わりました。
以前はよく来ていた人が来なくなったり、あまり来なかった人が来るようになったりです。
以前と同じように、相変わらずやってくる人もいますが、その後、まったく音沙汰のない人もいます。
もう私が別の世界にいってしまったと思われているのかもしれません。
しかし、中村さんが言われたように、たぶん何も変わっていないのです。
いや、こう言ったほうがいいかもしれません。
あまりに大きく変わったので、だれにもその変わり様はわからないのです。

変わったのに変わらない。
そんな状況なのです。
心配で会いに来られない人がいたら、ぜひ会いにきてください。
以前とまったく変わっていません。
変化にもし気づく人がいたら、きっとその人も変わったのでしょう。
変わった者だけが気づく変化、そういうものもあるのだろうと思います。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010/03/30

■節子への挽歌940:特別の存在

哲学者の鷲田清一さんは、周辺に誰もいないからさびしいのではなく、自分が他者にとって意味があると感じられない時、生きる気力を失う、というようなことを書いています。
私たちは、自らが誰かにとって特別な存在であると感じられる時に、生きがいを感ずるとも書いています。
とてもよくわかります。

自分にとって「特別の存在」の人は誰にもたぶんいるでしょう。
しかし自分が誰かにとって「特別の存在」であると確信を持てる人は多くはないかもしれません。
「特別」であるかどうかの評価は、前者の場合は自分でできますが、後者の場合は自分ではできないからです。

「特別の存在」は、しかし、個人に属する特質ではありません。
関係性の中から生まれるものです。
それぞれが、余人をもっては代えがたい存在となるような関係性を創り出すのが「特別の存在」という意味です。
ですからそれは対称性を持っており、相互に「特別な存在」なのです。

節子は、私にとっての「生きる意味」でしたが、言い換えれば、私たちはそれぞれに「特別の存在」でした。
私の存在は、節子にとって「意味」があることを私は日常的に実感できていました。
だから私は、いつも「生きる気力」に満ち満ちていて、元気でした。
その「気力」は、私の心を常に平安に保ってくれていました。
それが消えてしまったのです。
鷲田さんの言葉を借りれば、節子がいなくなったからさびしいのではなく、自分が「特別の存在」であることを確信させてくれる節子の不在が私は不安にさせているのかもしれません。
最近、えもいわれない不安を感ずることがあるのです。

「周辺に誰もいないからさびしいのではなく、自分が他者にとって意味があると感じられない時、生きる気力を失う」。
この言葉は、深く心に響きます。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

■事件の背景

またモスクワでテロ爆破事件が起きました。
報道では「黒い未亡人」といわれている、チェチェン弾圧の被害者の未亡人の自爆テロだといわれています。
ほんの少しだけ想像力を広げれば、彼女たちもまた被害者といえるでしょう。
日本ではあまりチェチェンのことは話題になりませんが、そこで行われたこと、行われていることは、普通の人であれば目を背けたくなるような状況です。

つい先日、チェチェン人難民認定申請者の不認定に関する抗議声明への呼びかけがメールでまわってきました。
チェチェンから脱出し、2年半前、日本で難民認定のための申請を行った2人のチェチェン人青年に対して、3月19日に日本政府は不認定の決定をしたのです。彼らは、この2年半にも及ぶ長い審査の間、最低限の生活費にも足りない支援費で食いつなぎ、健康も悪化させながら、ひたすら日本政府に難民として認定される日を待っていたのだそうです。
こんな事実は多くの人たちはまったく知らないでしょう。
私はチェチェン関係のメールマガジンを受け取っていますが、このメールが来るまでそのことに気づきませんでした。
このことに関しては、2010年3月20日のチェチェン総合情報のサイトをご覧ください。

9.11事件もそうですが、私たちは事件そのものの衝撃が大きいために、ついついその背後にある事情を考えることには無関心になりがちです。
しかし、大切なことは、そうした事件が発しているメッセージです。
それを読み解かなければ、事件はまた繰り返されます。
さらに、事件のもつメッセージを無視して、被害者側がその事件を手段としてまったく正反対のメッセージを発することも少なくありません。
かつての戦争の多くは、そうして起こされました。

「被害者側」と描きましたが、これはたぶん正確ではありません。
モスクワの爆破事件も、9.11事件も被害者と加害者の構図は、たぶんマスコミが描いているものとはまったく違うでしょう。
マスコミは強いものの見方ですから、常に加害者の側で報道します。
一見、弱いものの立場や正義を語りますが、それは文字通り「騙って」いるだけです。
注意しなければいけません。

ところで、中国の餃子中毒事件の犯人も逮捕されたと報道されています。
この事件の背後には何が見えるでしょうか。
もしかしたら、犯人逮捕もまた事件そのものかもしれないという気がしてなりません。
そうでないことを祈りたいです。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2010/03/29

■節子への挽歌939:悲しみと一人で向き合うこと

節子
この挽歌は、節子と私自身に向けての独白なのですが、公開の形をとっているので、読者からメールが届くこともあります。
なかには私と同じように愛する人を見送った人もいます。
挽歌に対する読み方は、それぞれにまったく違いますので、私が戸惑うこともあれば、思いをつなげられることもあります。
先週も以前から時々メールをくださる方から、最近の記事に関してメールが届きました。
今日は、そのメールを節子にも聞かせたいと思い、紹介させてもらうことにしました。

いつも、挽歌を読ませて頂いています。
挽歌に書かれていることは、共感や発見、そして私の知らなかった世界の扉をノックしてくれるようなものもあり飽きることはありません。
彼を送って8ヶ月になりますが、私と同じ頃、佐藤さんはどんな心境でいらしたのかと、過去に遡って読ませて頂くこともあります。

最近、佐藤さんの挽歌で励まされたことがあります。
それは、この悲しみは、誰とも共有できない、ということです。
もし共有できる人がいるとしたら、それは旅立ってしまった愛するその人しかいないのだと思いました。
悲しみと一人で向き合うことは、何も特別なことではないのですね。
佐藤さんが、誰とも悼み合っていないのを感じるにつけ、
一人で向き合うことを、当り前に感じられるようになりました。

この人は私よりもずっと若い女性です。
彼女は、私が「誰とも悼み合っていない」と言います。
そう言われて、そのことに私自身初めて気づきました。
実は、心のどこかに「誰かとこの気持ちを共有したい」という意識があったのですが、このメールを読んで、私もまた吹っ切れたような気がします。
考えてみると、誰とも「悼み合えない」ほどの特別の人に出会えたことの幸せに感謝すべきかもしれません。
そしてもし、人の別れが避けられないものであるならば、心を込めて見送り、悼み続けることができることにもまた感謝すべきかもしれません。

読者からのメールに、私も励まされることもあるのです。
節子
この人が言うように、悼み合えるのは節子だけなのでしょうね。
あなたも私を悼んでいますか。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2010/03/28

■節子への挽歌938:人は本来支え合う本性を持っている

節子
一昨日のサロンで、人は本来支え合う本性を持っていると発言させてもらいました。
素直に生きていれば、それは当然のことのように私には思えます。
そういえば、そのサロンにも参加してくれたブログの読者が、ゾーエとビオスのことが最近、ようやくわかってきました、と言ってくれました。
着飾った頭や心を解き放てば、「生命の支え合う本性」が現れてきます。

私はそうした考えに、どちらかといえば「理屈」からたどりつきました。
節子に言わせれば、私は実践者ではなく理屈屋なのです。
こんなにたくさんの本を読まなければ、そんな簡単なこともわからないの、と節子には笑われますが、いろんな本を読んでその考えにたどりついたような気がします。
念のために言えば、自分の生き方の意味がわかってきたということで、本を読んだから生き方が変わったということではありません。
私の生き方は、学生の頃からたぶんほとんど変わっていません。

節子は本を読まない人でしたから、逆に生来のそうした生き方を失っていませんでした。
私たちは、本をたくさん読んだのとまったく読まなかったのとの違いはありますが、「人は本来支え合う本性を持っている」という確信は共有していました。

支え合う本性は、同時に普遍的な生命の痛みを感ずる身体性と深くつながっています。他者の喜怒哀楽は自然と伝わってくるものです。
その感度が強ければ、おのずと人の身体は、そして心は動きます。
私たちは、喜怒哀楽も心身の痛みも、深く共有していました。
しかし、それは決して2人だけの関係に内向するのでも呪縛されるのでもなく、むしろ外に向かって感度は広がっていたような気がします。

最近、その感度が私から消えてきているような気がします。
節子を見送った後は、その感度が極度に高まり、何を見ても涙が出ました。
しかし、最近、あまり涙が出なくなりました。
涙だけではなく、喜怒哀楽の感度が弱まっている気がします。
それに気づいたのはつい最近です。
どうも私の身体性は鈍くなっているのです。
喜怒哀楽が、奇妙に内部にとどまっているような気がします。
これは愛する人を失った喪失感の後遺症かもしれません。
最近、身体の動きが悪いのは、きっとそのせいです。

この週末、寒さのせいもありますが、あまり動けずにいました。
身体がとても重くて、そこから気が飛び出せずにいるような気分です。
支え合いの本性に影響しなければいいのですが。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010/03/27

■節子への挽歌937:奥さんにお供えしてください

節子
昨日はオープンサロンでしたが、久しぶりの人が参加してくれました。
節子もよく知っている中村公平さんです。
特にサロンの案内をしているわけではないのですが、どうしてサロンの再開を知ってくれたのでしょうか
その質問には、答をはぐらかされてしまいましたが。

節子も知っているとおり、今頃は長野の八ヶ岳山麓で優雅に晴耕雨読人生を送っているはずなのですが、なぜかまだ東京にいるようです。
少し早目に来た中村さんは、これを奥さんにお供えしてくださいとお菓子を持ってきてくれました。
ずっと気にしていてくれたのです。
いかにも中村さんらしく、そのお気持ちがとてもうれしく感じました。
節子がいなくなってから、もう2年半も経つのに、今もなお節子のことを忘れないでいてくれる人がいることに感謝しなければいけません。
そういえば、やはり節子の知っている藤本さんも、節子のことに言及してくれていました。
藤本さんはいつもながら、今回もどっさりとブドウだらけの名物ブドウパンを持ってきてくれました。

中村さんは5年ぶりの参加だとおっしゃっていました。
しばらく北九州市のタクシー会社の社長をされていたようですが、戻ってきてまた新しいプロジェクトに取り組み出そうとしています。
今回は中村さんや藤本さんのほかにも節子が知っている武田さん、それにこれも久しぶりに小山石さんと清水さんが参加しました。
ささえあいネットワークの福山さんも参加されましたので、武田さんも含めれば(この数年慶応の先生もやっています)大学の先生がなんと4人も集まったわけです。
これだけだと話が小難しくなりかねないのですが、幸いにもみんな大学の先生らしからぬカジュアルなタイプなのです。
それでもホームページを見て初参加してくれた若い女性のUさんは少し戸惑われたかもしれません。

節子はいつも言っていました。
どうして男性たちは、小難しい話に熱中するのだろう、と。
それは、私がとりわけそうした話が好きなのを知っていた節子の、私への牽制球だったのかもしれません。

帰宅後、中村さんのお菓子を節子に供えさせてもらい、昔のようなサロンだったことを節子に報告させてもらいました。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010/03/26

■節子への挽歌936:節子のいないオープンサロン3回目

節子
今日は節子がいない再開オープンサロン3回目です。
前回は武田さん一人の参加で、少しは再開したことを呼びかけなければと思ったのですが、それもこのサロンの趣旨に反するなと思い、やめました。
さて今日はどうなるでしょうか。

サロンもそうですが、湯島はだんだんまたいろんな人の集まりが増えてきました。
今日は午前中、熊本の宮田さんが来ました。
農業と福祉の実践者にして研究者です。
熊本といえば、節子と一緒に地獄温泉に行ったことを思い出します。
道路沿いの露天風呂で温泉に入ったのも思い出の一つです。
あの頃は、私もかなりさまざまなプロジェクトに関わっていて、時間破産を続けていましたので、ゆっくりとする間もなく、結構忙しい旅だったような気がします。
ですから行く前に予定を組んで、宿も決めての旅行でした。
でも、節子はそうした旅が好きではありませんでした。
行き当たりぱったりで、現地で宿を探すような旅が節子の好みでした。
そうした旅を満喫させられなかったことも、私の悔いの一つです。

その頃、時間破産を起こしてまで各地に出かけていましたので、今でもいろいろなところに友人がいます。
将来は、そうした友人知人のところを、節子の好みのスタイルで節子と一緒にゆっくりとまわろうなどと思っていたのですが、それもかなわぬ夢となりました。
時間ができたらなどと思ってはいけません。
できるときにやっておく、が節子の口癖でしたが、それに従わなかったことが悔やまれます。

いま電話でサロンに参加するという連絡がありました。
今日は少なくとも5人ほど集まりそうです。
いつもサロンの始まる前、今日は何人来てくれるかなと節子と話していたことを思い出します。

やはりサロンは一人ではなく、節子と一緒にやりたかったです。
そろそろ最初のお客様が来る時間です。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

■ゾーエとサブシステンス

今日もまた無意味の独白です。
このブログは、ゾーエとビオスという人間のニ面性を意識して、思い切り主観的なものとかなり社会的なものとをつなげながら書いているのですが、それと絡み合うような意味で、システムとサブシステンスを意識して書くようにしています。

昨日、湯島に2組の人たちがやってきました。
いずれも企業関係の人なのですが、午後は大企業、午前中は零細企業の人たちでした。
そこで交わされた話題は、全く対象的です。
前者では「どうしたら経営改善できるか」、後者では「どうしたら存続できるか」です・
しかし、もしかしたら、その問題設定は逆なのではないかと思います。
事実、議論のはしばしや、議論が終わった後の雑談では、それを感じさせる話が出ました。

ポランニーは、経済をシステムの論理に基づく形式経済とサブシステンスに基づく実体経済に分けました。
大企業は言うまでもなく前者の主役ですが、中小企業や零細企業が生きている世界は、まさに「生きている世界」という表現がふさわしいように、サブシステンスの世界です。
いま世界は、形式経済の破綻が実体経済を見直す動きを起こしていますが、そこをつないでいるのがサブシステンスに足を置いた中小企業なのかもしれません。
この数十年で、ベクトルは反転しているのです。

最近、社会的企業とか事業型NPOが話題ですが、それらももしかしたらシステム思考に向いているような気もします。
これまでの形式経済の慣性が働いているようです。
しかし、サブシステンスをベースにして発想していかない限り、流れは変わりません。

行政の世界でいえば、地域分権はシステムの世界ですが、地域主権はサブシステンスの世界です。
少しずつ認識は変わっていますが、あいかわらずの形式論理がまだ主流です。

私は、システムの世界ともサブシステンスの世界とも、それなりに関わらせてもらっていますが、双方と付きあって感ずるのは、その両者を担う人たちの意識の中に上下構造発想があることです。
格差社会の進行は、その一つの現われかもしれません。
それがあるから、みんながなかなか「越境」しないのです。
パラダイムを変えれば世界の姿は一変し、ベクトルの反転が起こるはずなのですが。

今日は熊本で福祉施設の経営に取り組んでいる人や零細企業の経営者でありながらシステムの論理破綻に関心を持っている人、コミュニケーションの専門家の大学教授が湯島に話に来る予定です。
みんなサブシステンスの世界を実感している人たちです。
さてどんな話が出るのでしょうか。

それぞれのゾーエとサブシステンスと触れ合えるかどうかが、人に会う醍醐味です。
それによって自分の世界が変わっていくのがよくわかります。
今日はもうひとり、私とは全く異質の世界にいるサブシステンスの人とも会えるかもしれません。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010/03/25

■節子への挽歌935:夫唱婦随にして婦唱夫随

節子
早稲田の名誉教授の小林雅夫さんから「古代ローマのヒューマニズム」が贈られてきました。
小林さんと節子が会ったのは、2人とも病気を体験したからのことでした。
病気の後遺症で歩行も会話も不自由になった小林さんが、奥さんと一緒にオープンサロンに参加してくれたのです。
1回きりしか節子はお2人にはお会いしていませんが、とても強い印象を受けたようでした。
「夫唱婦随」などというと誤解されそうですが、良い意味でのそれを絵に描いたようなお2人でした。
わが家ほどではないかもしれませんが、小林ご夫妻もたぶん奥さんの方がしっかりしているようにお見かけしましたが、だからこそ「夫唱婦随」の見事さが感じられたのです。

夫婦は不思議なもので、外からの見え方と当事者同士の実態は往々にして逆転しています。
夫唱婦随とは同時に婦唱夫随でもありますから、実は唱随の主客は融通無碍に変化するというべきかもしれません。

節子にとっては、小林ご夫妻の関係は理想的に見えたようです。
私たちはまだそこまで行けずにいましたから。
もし節子が元気でいつづけてくれたなら、私たちも小林ご夫妻のようになれたかもしれません。
節子がいなくなってから、ご夫妻は湯島に訪ねてきてくれました。
とてもあったかいご夫妻です。

昨夜、本は一気に読ませてもらいました。
とても面白かったです。
ホームページのブックのコーナーに日曜日にアップします。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010/03/24

■節子への挽歌934:セロトニン

「自殺のない社会づくりネットワーク」では毎月、交流会をやっています。
先日の交流会で、自死遺族の人の「怒り」や「自責感」が話題になりました。
家族の自死を思いとどめさせられなかった悔いは、やり場のない「怒り」や「自責感」へとつながるのでしょうが、こうした話題はこの交流会でも時々でます。
しかし、そのたびに、私もまたあまり冷静ではいられなくなります。
節子は病気でしたが、それでも節子を守ってやれなかった自分への「怒り」や「自責感」は、とても大きく、今もなおそこから抜け出られません

がん治療の技術が進んだという報道を見るのもつらければ、がんは治るなどという文字を見ると、心が萎縮します。
節子を守れなかった自分がとがめられているような、そんな思いに落ちてしまうとしばらくは立てなくなってしまいます。

その思いを自由に発散させることが大切なのかもしれませんが、その一方で、その思いを語ることがまた自己弁護のような気がしてきて、口にした途端に自己嫌悪に落ちるのです。
この挽歌も、実は何回も書くのを止めて、3日目にしてやっと書き上げました。

ところで、他者の自責の念に出会うたびに、その過剰さを思うのですが、自分のことになると自責の念をどんどんと掘り下げたくなるのです。
こうして人は自らを責めて、奈落へと迷い込むのでしょうか。
それとも、責めていった先に、世界は開けていくのでしょうか。
感動の涙はセロトニンを創りだし、人を元気にすると言います。
自責の涙もセロトニンを生みだすのかもしれません。
もしそうであれば、過剰すぎるほどの自責に苛まれるのがいいのかもしれません。

今日は雨。
自責にはぴったりの日です。
雨は天の涙ですから。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

■官のカネ、社のカネ、民のカネ、自分で汗したカネ

政治とカネの問題が相変わらず騒がしいですが、私にはその意味がよく理解できていないせいか、なんとまあ瑣末な話に振り回されて、大筋を見逃していることかとさえ思えます。
国民とマスコミが、この問題にこれほどひっかからなければ、日本の政治状況は大きく変わったでしょうが、見事にその勢いは「それを望んでいた人たち」の思惑通り、削がれた感じがします。

それはそれとして、昨日、ある会に出ていて、お金にはさまざまな種類があることを感じました。
実は20日に共済研究会のシンポジウムがあり、その基調講演で青山学院大学の本間照光教授が賀川豊彦に関する感動的なお話をされたのですが、そこでも本間さんは「お金には色がないというのは間違いだ」と熱く語っていました。

昨日は地域包括支援センターに関わる委員会でしたが、その事務局は行政に近い機関です。
委員会が始まる前にたわいのない雑談が行われていたのですが、そこで年度末でいろんな人が視察に来るとかいうような話がありました。
その委員会に行くと私も委員手当てをもらえます。
私のように定期収入のない人間にとってはありがたい話なのですが、少し違和感がありました。
それがなんなのだろうかと気になっていましたが、その雑談を聞いていて、本間さんの話を思い出しました。

官のカネ、社のカネ、民のカネ、自分で汗したカネ、それらは全く違うのだと気づいたのです。
そういえば、大企業の経営幹部の人たちの話を聞いていても、やはり違和感を感ずることが多いのです。

湯水のごとくまではいかないまでも、官のお金や社のお金の無駄遣いは私にはとても気になります。
実は私も会社勤務時代はかなりの無駄遣いをしていました。
恥ずかしいかぎりです。

倒れそうなほど汗をかいて働いているのにおカネが回ってこない人がいる一方で、無駄遣いをしながらおカネを懐に入れている人がいる。
どちらが「幸せ」なのかは一概には言えないでしょうが、やはりおかしい気がします。

私はいまもまだ、さまざまな世界と付き合いがありますので、その世界の格差に唖然とすることも少なくありません。
居心地のいいのは、間違いなく、おカネのあまりない世界ですが、そこでの暮らしは結構大変で、居心地がいいなどというと怒られるかもしれません。
私はたぶん両方の「いいところ」を享受させていただいているのでしょう。
ずるい生き方なのかもしれません。

本当は「自分で汗したカネ」を基本にした生活をすべきなのでしょう。
お金を一緒くたに考えていたために、汗したカネの価値への理解が不足していたと最近思うようになっています。
おカネの世界はやはり奥が深いです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010/03/23

■人は常に欠如と悪のかたまり

人に関して、過去の哲学者はさまざまなことを言っています。
カントはこういいます。
「自然の歴史は、善をもってはじまる、なぜならこの歴史は神の業だからである。自由の歴史は、悪をもってはじまる、なぜならこの歴史は人間の業だからである」

これはかなり奥深い意味を持っています。
なぜなら、善悪を考えるのは、人間だからです。
自然にとっては「善悪」はありません。
と言うことは、人間は「自己否定的な存在」だということになります。

ハイデガーは、共同体は、つねに欠如をともなって生じ、それ自体が欠如の共同体だといっているそうです。
共同体を人間と置き換えるともっとわかりやすいです。
人は常に欠如を持った存在なので、一人では生きられないということになります。
これも実に深い意味を持っています。
サブシステンスという言葉があります。
辞書を見ると「生存」「生計」などと味気のない訳語が並んでいます。
これもなかなかわかりにくい言葉ですが、欠如に関連しています。

急にこんなことを書いてしまいましたが、最近、人の本質は「欠如」ではないか、そしてその欠如を補うための行為を「悪」というのではないかという気がしてきたのです。
同時に、それらはまた、ダイナミズムの源泉であり、経済もまたその上に乗っかっているわけです。
そう考えると、政治も経済もなんとなく理解しやすいです。

そろそろ自評はやめて、また時評に戻りたいと思います。
退屈な自評にお付き合いいただきありがとうございました。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

■節子への挽歌933:哲学するチビ太

節子
最近寝不足です。
以前は節子のことを思い出して眠れないことが多かったのですが、最近はそうではなくて、わが家のチビ太くんのせいで、夜中に起こされたり、早朝に起こされるのです。
今朝も5時半に起こされました。
そのまま起きてしまったので、今ごろになってとても眠くて仕方ありません。
まあこんな状況が続いています。
みんなはきっと仕事で忙しくて疲れているのだろうなと思ってくれているでしょうが、実はチビ太のせいで疲れているのです。
困ったものです。

さて問題は、そのチビ太くんです。
もう15歳の老犬で、耳も悪く、目も悪いのですが(頭も性格もあんまりよくないので、いいところがありません)、ほとんど終日寝ていますが、突然に起き上がって吠え出すことがあるのです。
声をかけるとキョトンとしています。
たぶん夢をみるのでしょう。

それだけではありません。
時々、なぜかある方向を向いて吼え続けたり、あるいは沈黙を保ったまま一定方向を見据えて動かないのです。
その姿は哲学者、いや哲学犬です。
何を考え、何を見ているのでしょうか。
長年の付き合いなのに、残念ながらチビ太とはなかなかコミュニケーションが難しく、その心情は理解できません。

時々思うのですが、もしかしたら目線の先に節子を見ているのかもしれません。

節子がいなくなってからチビ太には大きな変化はありませんでした。
なんと薄情な犬だと思ったのですが、そう思うのは小賢しい私くらいで、実はチビ太もまたいろいろと思うことがあったのでしょう。
なにしろ頭の悪い犬ですから、すぐには状況を理解できなかったのかもしれませんが、間違いなくその意味は理解しているようです。
そして哲学しているのです。
それが最近わかってきました。

哲学しているチビ太をみると節子を思い出します。
節子は頭が悪かった上に、哲学もしませんでしたが、小賢しい私に比べれば、誠実に生きていました。
存在そのものが哲学だったのです。
その証拠に、チビ太くんにまで哲学されているのですから。
小賢しい生き方から早く抜け出なくてはいけません。
もっと念仏しなければいけません

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010/03/22

■節子への挽歌932:念仏

遅くなってしまいましたが、お彼岸のお墓参りに行きました。
昨日まで天候不順だったためか、お墓参りの人がたくさん来ていました。
墓地もまた昔は社交の場だったのだろうなと思います。
人は死んでなお、人と人とをつなげる存在なのです。

それにしても一昨日、昨日と、風がとても強く、一昨日の夜などは家が飛んでしまうのではないかと思うほどの強風でした。
彼岸の入り口が開いて、そこから此岸に風が吹き込んできているような感じでした。
その風が此岸の汚れをすべて吹き飛ばしてくれたように、今日は気持ちの良い日になりました。

ところで、つい最近知ったのですが、「念仏」とは「今の心に仏」と書きます。
先日、テレビの「こころの時代」で法然のことを語っていた町田宗鳳さんから気づかせてもらったことです。
念仏を唱えている時、心に仏が居る。
とても納得できます。

法然は、称名念仏で浄土に往生できるとする浄土宗の開祖です。
自らが念仏する声を、自身が聞くことによって、仏に願われている存在であると確認し、生きる力を得るとも言われます。
そうした「念仏のちから」を私が体験したのは、節子の実家での法事に参加してからです。
節子の実家は浄土真宗でした。
法然の弟子の親鸞が開祖で、結婚した頃、お寺のご住職が親鸞のある本を探していたのですが、たまたまその本を持っていたので差し上げたこともあります。
そんな話を知っている人はもう誰もいませんが。
当時、私も少しだけ親鸞に興味を持っていたのです。

節子の実家の法事に出て驚いたのは、みんなが一緒に長い経文を読経することでした。
まあ念仏とはちょっと違いますが、声に出すことの、そしてそれを聴くことの効用を体験したのです。
たしかに、その時、心に仏を感じます。
そして、その仏の向こうに、故人を、節子を感じるのです。
そこでは、仏と節子と私が一体になっています。

法然は、念仏によって浄土に往生できると言いましたが、私には念仏によって浄土を引き寄せられるような感じがします。
いずれにしろ、念仏、声明、読経は、愛する人を失った者へ大きな力を与えてくれます。
「今の心に仏」という文字の形を知って、そのことの意味がとても腑に落ちました。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

■自評5:SNSの意味がわかりません

さてさてネットと言えば、最近の流行りはSNSです。
これについても言及しなければいけません。
私も4つのSNSに何となく参加しています。
別に意図的に参加したのではなく、友人が誘うので断る理由もないので参加したのですが、これがまた思わぬ出会いの魅力を持つと同時に、人間のダイナミズムを閉じ込める魔力ももっているような気がします。

友だちの友だちはつながっているという、スモールワールド理論というのがありますが、まさにその通りに、友だちの友だちの中に友だちを見つけることもあります。
またこれまで久しく付き合いのなかった高校時代や大学時代の同級生に出会うことができるかもしれません。
しかし、若いときであればともかく、この歳になると世界を広げることのわずらわしさも感じます。
それに再会や出会いは、ある意味を持っている必然的なものと考えている私にとっては、探してまで出会うことへの抵抗もあります。
実際に昨年、友人と話していて、その人が昔の私の友人と最近付き合いがあることを知ったので、連絡先を教えてもらったのですが、やはり連絡を取るまでには至りませんでした。

一方の魔力ですが、それはどんどんとネットの世界に引きずり込まれてしまう引力です。
ネットの世界は実に深く広いです。
そこに入り込んだら、それこそ底がなく、無限の広がりを感じます。
そしてそこでのつながりややりとりを通じて、ある意味の完結性が生まれてきます。
映画「マトリックス」の世界に入ってしまうようで、そこに安住したくなりかねません。
まさにアバターを生みだす創造主のような気分にもなれますし、過去を創りだすことさえできるでしょう。
わずらわしいリアルな世界からおさらばできるのですから、なんとも大きな魅力です。

30年ほど前に「ネットワーキング」の概念が日本に導入された時に、私も大きな関心を持ちました。
研究会にも参加しましたし、社会実験の資金集めにも協力しました。
ですから、SNSが話題になり出した頃にも期待がありました。
しかしその後のSNSの展開には大きな違和感がありました。
閉じられたネットワークではなく、開かれたリゾーミックな構造は私にも共感できるのですが、その中で行き交うものがあまりに記号的で目的的なのがどうも好きになれません。
それにどこかに拡大思想やマス発想も感じます。

もっともこれは私にSNSを活かすほどの主体性やリテラシーがないからかもしれません。
うまく使えるようになれば、私の評価も変わるでしょう。
もしかしたら、SNSは「死の概念」を変えるかもしれないとも思っているのです。
まあそれこそが私が一番危惧することでもありますが、心のどこかでそれを望んでいるような気もしています。
SNSに関しては、まだ距離を持って付き合っているのが正直なところです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010/03/21

■節子への挽歌931:枕元のバナナ

節子
昨日、私は出かけていたのですが、以前住んでいた近くのMさんが来てくれたそうです。
節子が好きだったといって、宝塚の炭酸せんべいを持ってきてくれました。
帰宅後、節子にお供えされていたお煎餅を、私もおすそ分けしてもらいました。
久しぶりの炭酸せんべいでした。
風月堂のゴーフルを思い出します。
そういえば、節子と結婚した頃、2人ともゴーフルが気にいっていた記憶があります。

節子は駄菓子があまり好きではありませんでした。
ですからわが家の娘たちは、あまり駄菓子を食べたことがありません。
そのために友だちと付き合ううえで、いささかの苦労をしたようです。
後でそれを知って私たちはちょっと反省させられました。
子どもには親にもわからない苦労もあるものなのです。

私は昔から駄菓子が大好きでしたが、節子はあまり間食をしない人で、駄菓子を買う習慣があまりありませんでした。
しかし、いくつかの好きなお菓子が、節子にもありました。
たとえば、そばぼうろうは節子の好物でした、
節子から教えてもらったのですが、私も今は大好きです。
そういう好きなものもありましたが、基本的に節子はお菓子の間食はほとんどしない人でした。
私とは大違いでした。

しかしなぜか風月堂のゴーフルと有明のハーバーを、一時期、よく一緒に食べた記憶があります。
誰だったか思い出せないのですが、当時、よくゴーフルを贈ってくれる人がいた気がします。
それできっと節子もゴーフルが好きになったのです。
宝塚の炭酸せんべいも、その流れで節子の好物になっていたのでしょう。

間食の習慣がない節子が、お菓子を食べだすようになったのは、胃の摘出をしてからです。
一気には食べられなくなり、いつも少しずつ食べるスタイルになってからです。
やっと私と同じ文化になりました。
そして節子はいつもバッグにお菓子を持ち歩く習慣ができたのです。
外出時だけではありません。
眠る時にも、必ず枕元にお菓子やバナナやヤクルトを置いておき、少しずつ食べるようになったのです。

節子がいなくなった今、そのスタイルを私が継承してしまっています。
なぜか真夜中にお腹が減って、枕元のバナナを一口食べるようになってしまっています。
あの頃の節子のスタイルそのものです。
節子が半分、私に乗り移っているからかもしれない、といつも暗闇で食べながら思います。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

■自評4:ローンのお勧めのすごさ

ネットでの購入やゲームをしていて驚いたのが、ローンのお勧めのすごさです。
日本もまちがいなくローン社会に向かっているようです。
それでいろいろな事が見えてきたのですが、要はローン利用者として取り込んでしまうために、企業は甘い蜜をいろいろなところにばら撒いているのです。
よくわからない、そしてすぐには影響が見えてこない仕組みの中で、人を先ずは消費者に仕上げ、つづいて労働者にし、使えなくなれば今度は福祉の市場に送り込むのです。
恐るべき構造です。

その一方で、一部の人は汗も書かずにますます財産を高めます。
カモフラージュのために、考えることをしないような一発芸人が程度の低い道化師(批判力を持たないという意味です)として仕上げられます。
これまで聞いたことのないような金貨の音を聞かされて、彼らは従順な飼い犬のようにその役割を果たします。
マスコミや学者や知識人も、そのほとんどは自らを守るために「いうべきこと」の意味をとりちがえて、これまた従順に役割を果たします。
見たくないものは見ない。
まさにナチス時代のシュペアーです。

自評が時評になってしまいました。
昨日、2つほど怒りを解きほどきましたが、まだ残っているようです。
たとえば外交文書の破棄です。
これは明らかに犯罪であり、その気になれば誰が破棄したかはすぐにわかる話です。
私ごときにも怪しい当事者の名前が伝わってくるほどですから、関係者はみんな知っているのではないかと思います。
その犯罪者を逮捕しない政府は、理解できません。
外務省官僚の多くは家族関係にありますので、かばい合う文化があるのでしょうが、事の重大さをもっと認識すべきです。
私たちの生活を危うくしかねないほどの重罪だと思います。
そうした行為は二度と起こしてはいけません。

それにしても、この国のどこが「国民主権」かと思いたくなります。
国民はおとなしい羊としか見られていないのです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010/03/20

■節子への挽歌930:どんなニュースの後ろにも節子がいます

地下鉄サリン事件から今日で15年目。
大変不謹慎ですが、毎年この日になると思い出すのが、家族で行ったトルコ旅行です。
カッパドキアに向かうバスのなかで、その情報が入ってきました。
もしその時にトルコに旅行していなかったら、私も娘も被害に会う可能性がゼロではありませんでした。
そんな話をしたのを覚えています。

この旅行は家族4人で出かけたのですが、直前に娘と節子が体調を崩し、出発間際に娘が行きたくないと言いだしました。
自分も体調が悪かった節子が娘を説得してくれました。
迷ったら行動する、というのが節子の哲学でした。
いろいろと思い出のある、最後の家族海外旅行でした。
トルコは、おそらく節子が一番気にいったところだったと思います。

過去の大事件の報道は、それぞれの家庭の事件にもつながっています。
その時の自分たちの生活が、その事件と重なって思い出されます。
地下鉄サリン事件に巻き込まれた親戚や友人知人はいないこともあって、私の場合、地下鉄サリン事件はトルコ旅行での節子を思い出す契機なのです。

事件に限ったことではありません。
風が吹けば吹いたで(今日は今も強い風が吹いています)、節子に関わることを思い出しますし、桜の花を見るとまた節子を思い出します。
笑われそうですが、いつも、節子、節子なのです。
未練がましいわけではないのです。
なぜか自然と事あるたびに節子が出てくるだけの話なのです。
どんなニュースの後ろにも節子がいるのです。
そのために節子から離れられないのかもしれません。
どちらが因で、どちらが果なのかわかりませんが、私にはまだ、節子と世界がくっついてしまっています。

世界を共有していた伴侶がいなくなると、歴史の意味も変わってしまうようです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

■自評3:ネットでの購入のお誘いの魔力

怒りを差し挟んでしまったのですが、また反省を込めての自評です。

楽天プライズだけが私がやっているゲームではありません。
もう一つまったく無意味だと思えるのですが、そこに出てくるキャラクターが気にいってほぼ毎日やっているのがあります。
「げん玉電鉄」というすごろくです。
さいころを振って動くのですが、あるところに行くと「広告2倍」とそのキャラクターが大げさに看板を上げるのです。
そうするとそこにある広告の対象に入会したり購入したりするとサービスのポイントが2倍になるのです。
毎回、やっているとなにやら申し込まないと申し訳ない気分になります。
サブリミナル効果ではないですが、効果はかなりありそうです。

この「ポイント」というのがまた曲者です。
私がなぜネットにはまったかというと、テレビによく出ている森永卓郎さんがポイントの説明をしているのを聞いたからです。
ネットやカードを上手く使うといろんなポイントが付くという話です。
それは前から知っていましたが、その仕組みに胡散臭さを感じていました。
というのは、仕組みを複雑にすればするほど利用者のメリットが高まるという論理が私には全く納得できなかったからです。
それで関心を持てなかったのですが、森永さんの幸福そうな顔を見ているうちに、やってみようと言うことになったのです。
それでやり出したひとつが、楽天でのネット購入やホテルの予約です。
これに関してはまたいろいろな気づきをしているのですが、今日のテーマはその話ではなく、ネットをやっているといろいろと消費の魔手が寄ってくるという話です。

まあそうしたお勧めによって、何かのサンプルを無料でもらったり、資料を取り寄せているうちに、いつの間にか自分がお客様になってしまっているのです。
いつの間にか、ポイントを集めるために、見たくもない広告を見たり、見たくもないホームページを見たりしていることさえあるのです。
結果としてのポイントではなく、目的としてのポイントになっているわけです。
そのうちに、ポイント獲得のために必要性の低いものまで購入してしまうようになって来ました。
今日もコーヒーが2キロも届きます。妻がいたら笑われそうですが。
私が批判しているドラッカーの顧客想像戦略に、まんまと乗ってしまっているわけです。

私でさえこうなのですから、ドラッカーファンのみなさんは、もっとはまるでしょうね。
子どもたちの世界がいささか心配です。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010/03/19

■ソフトバンクの倫理観は許せません

政界への怒りのついでに、経済界への怒りも書くことにします。
テレビのチャンネルを回したら、「S-1グランドチャンピオン」という番組をやっていました。
それを見るなり、娘がソフトバンクは馬鹿じゃないかと思うと言うのです。
最近、I-phoneを使おうかと考え出していたので、なんで?と訊きました。
そうしたら娘が、この番組のコメディアンの芸の優勝者に1億円の賞金を出すというのです。
唖然としました。
即座にI-phoneは止めました。
どんなに良い商品であっても、金の亡者の経営者が経営する会社の商品を買うほど、私も堕落したくはありません。
ソフトバンク製品を使っている友人たちは、この愚挙を知っているのでしょうか。
愚挙というよりも、私には許しがたい行為です。
1億円あったら、どれだけの人の生活を応援できるでしょうか。
ソフトバンクがいかにあくどく稼いでいるかがわかります。

それにしてもひどい会社です。
孫さんとはそういう人なのですね。
こういう人が社会を壊しているのでしょうね。
私には絶対に許せません。
孫さんが何をやろうが金儲けのためなのでしょう。
社会を壊し、金銭感覚をおかしくすれば、悪質な会社はいくらでも儲けられるのです。
そのお先棒を担ぐ芸人も芸人ですが。
ほとほといやになります。

私が時代から脱落しているのでしょうか。
しかし娘が怒っているのを知って、ホッとしました。
わが家からはソフトバンク関連の商品は金輪際追放です。

またまた書きすぎてしまいました、はい。

| | コメント (3) | トラックバック (0)

■生方副幹事長解任は当然でしょう

小沢幹事長辞任を発言した生方副幹事長が解任されたことが物議を起こしています。
大方の人は批判的で、民主主義の危機だとか独裁体制は怖いなどと騒いでいますが、そうしたアジテーションに多くの国民はたぶん乗るでしょう。
黄門ぼけしている渡部老人はともかくとして、枝野さんまでが批判的なのにはがっかりしました。
組織論を全くわかっていませんし、責任感が全くないとしか言いようがありません。

私も組織に25年間いました。
上司の言動に賛成できなかったときには上司にしっかりと言いました。
3回言ってもだめなら、従いました。
最後は、しかし、納得できなかったので、会社を辞めました。
それが組織と言うものだと思います。
責任を取るのは自分であって、相手ではありません。
組織と自分と意見が違う場合、どちらが正しいかの正解はありません。
あるのは、個人としての正解だけです。

小沢さんに生方さんは本気で諌めたのでしょうか。
懐に短刀くらい持っていなければ諌めたとは言えませんし、もし諌めても駄目なら職を辞するのは当然自分でしょう。
それができないのは、お気楽な組織人だからです。
彼には責任感が皆無なのでしょう。最悪の政治家です。
生方さんは直言型の政治家だとあるコメンテーターが言っていましたが、直言型ではなく他人に責任をなするだけの暴言型でしかありません。

個人を捨てて組織を活かすことが必要ですが、今の民主党には組織論を理解している人は少ないようです。
個人的には優秀な人が多いのですが、無能な政治家を集めた自民党のほうが強いような気がしてきました。
強い個人の集団と弱い個人の集団は、時に後者が勝つことは戦争の歴史が証明しています。

それにしてもなぜ最近の人は、他者の責任ばかりを問うのでしょうか。
幹事長や代表に従えないのであれば、組織を外れるか、組織の責任ある職位を辞すればよいだけの話です。
それができずに、組織や副幹事長にしがみついている生方さんを背任行為として解任するのは組織として当然のことです。
それもわからない馬鹿な評論家が、昔も今も日本を駄目にしているのです。

最近の政界の動きを見ていると、なにやら三国時代の諜報合戦をみる思いです。
孫子や菅子くらいは読んでほしいものです。

また書きすぎてしまいました。
こうなりたくないので、最近は「時評」ではなく「自評」に逃げていたのですが。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

■自評2:携帯電話(ネット端末)から見えてくる恐ろしい未来

昨日は私が守銭奴ではないかと書きましたが、実はそのゲームの罠から抜け出ようと思って、ルーレットに毎回最高の点数をかけて手元の財産をゼロにしようと考えました。
予定通りどんどんチップがなくなり、もう少しで「破産」できそうになったのですが、そこでなんと36倍の当たり目が出てしまいました。
またそこでせっせとチップを使いましたが、どうもある限度以下になると減らないようにプログラム化されているようです。
いろいろとやってみましたが、ある限度からは絶対にチップは減らないのです。
いさぎよく破産したくても破産できないわけです。
でまあ、チップが残っているとまたやりだしてしまうことになるのです。

私には賭け事はあまり経験がないのですが、その呼吸が少しわかりました。
こうやってずるずると引き込んでいくのでしょう。
ギャンブルに迷い込む人の気持ちが少しわかるような気がします。
一度迷い込むとなかなかそこから抜けだせなくなるのでしょう。

ところでこのゲームをやって仮にたくさんのポイントを得たとします。
それでどういうメリットがあるのでしょうか。
そのチップで、何かの商品をもらえる懸賞に応募できるのです。
といっても、別にゲームをしなくとも、最初に提供されたチップでも十分に応募できますから、あまり意味はありません。
それに、おそらく当選する確率は限りなくゼロに近いはずです。
それにもらってもあまり意味のあるような商品でもありません。
しかしそれがわかっていても、実際にチップが減ったり増えたりすると、何となくそこから抜け出しにくくなるのです。

ではこうしたゲームによって、私は何を失ったのでしょうか。
お金は一円も失っていませんが、「時間」はかなり失ってしまいました。
まあ、私は暇ですから時間を失ってもあまり影響はないのですが、それにしてももう少し意味のある時間の使い道があったような気がします。

さて私自身の恥を書いてしまいましたが、これはいまの社会の状況にかなりつながるところがあるような気もします。
モモの「時間泥棒」の話も思い出しますが、労働のために時間をとられたりレジャーのために時間をとられたりするほかに、こんな形で日常のほんの細かな時間ももしかしたら「盗まれている」のかもしれません。
これもまた消費社会の一側面なのでしょうか。
携帯電話(ネット端末)はその手段です。
これによって次に社会を担う世代は完全に管理対象として把握されてしまいました。
彼らの時間はすべて管理されだしていると言えるでしょう。
恐ろしい未来が見えてきます。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

■節子への挽歌929:菩薩

今朝、わが家のチビ太くん(老犬です)のなき声で5時半に起こされました。
時々、夜中に寝ぼけてなきだしたり、粗相をして呼びつけたりするのです。

階下に降りてみたら、粗相をしていました。
その後始末をして、またベッドに戻ったのですが、そこで何となくとても温かな気持ちにつつまれました。
チビ太のなき声で思い出せなかったのですが、夢の中で「節子」に会ったことを思い出したのです。
といっても、節子の形象が夢に出てきたのではありません。
なんとなく「節子」を感じさせるあたたかなエネルギーの塊が漠然と記憶に残っているのです。
そして、ともかく心がとても温かい気持ちになります。
こうした体験がこれまでも何回かありました。
まさに「至福の気分」に包まれるのです。

なぜそれを「節子」と思うのかというと、具体的にはいえないのですが、間違いなく節子の生命を感じるのです。
時に節子の「仕草」や「声」が感じられることもあります。
もっと言うと、節子と私が一体化した球体のようなものに包まれた感じなのです。
今回、球体と感じたのは、先日観た映画「地球が静止する日」の影響かもしれません。
いつもはもっと無形態な、雰囲気です。

今朝はそれについて、考えるでもなく考えてしまいました。
あれはすべての生命をつつみこむ生命場で、もしかしたら、節子もあの塊の中で至福の時間を過ごしているのではないか。
節子も、また最後はあの生命場につつまれるようにして、旅立ったのではないか。
まあ、いささかSF(空想科学小説)めいていますが、そんな気がしてきたのです。

そしてハッと気づきました。
これが親鸞の夢に出てきた菩薩なのだと。
まあ、朝から寝ぼけたことを書いてしまいましたが、今はそれを信じたい気分なのです。

節子は本当に「あたたかい存在」でした。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010/03/18

■自評1:守銭奴意識の気づき

しばらく自分を対象にした「自評」を書いてみます。
自分を見ていると社会も見えてくる気がしてきたものですから。
かなり自らの恥をさらすことになるでしょうが。

最近、気分転換にネットのゲームをやりだしてみました。
簡単なゲームです。
たとえば、楽天のホームページから入れる楽天プライズというのがあります。
参加すると無料で1000Gがもらえ、それを元手にして、ルーレットとスロットができるのです。
気分転換のつもりが、いつの間にか勝ちたくなりました。
完全にプログラム化されているのは知っているのですが、なんとか10000Gを目指したくなりました。
その上、スロットに当たりが出ると、コインが音を出して出てくるのです。
金貨の音ですが、その音が何ともなく快いのです。
私はもちろんこれまで金貨のぶつかり合う音など聞いたことはないのですが、不思議と魅かれてしまうのです。
金貨の音をこっそりと楽しむ守銭奴の話を昔なにかで読んだことがありますが、もしかしたら、私もまた守銭奴ではないかという気がしてきます。
パソコンの実体のない音でさえ、これだけ心を惹くのであれば、実際の音ならきっと心をつかまれて、その奴隷になることもありえます。
どうも頭で考えていることと生の自分とは違うようです。
いやはや困ったものです。

そんなわけで、暇に任せてスロットやルーレットを、結局、1か月ほぼ毎日やってしまいました。
最終記録は7000Gでしたが、有効期間が30日でしたので、翌日はゼロになってしまっていました。
この1か月の努力(?)はいったい何だったのか。
お金の魔力に勝てずにせっせと稼いだ結果も、きっとこんなものなのだろうなと思ったのですが、その一方で、人をその気にさせる「お金」や「稼ぎ」の威力も少しわかりました。
金貨の音もすごいです。

それにしても、自分もまた守銭奴のDNAが埋め込まれていることを知って、少し滅入ってしまいました。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

■節子への挽歌928:人は強くもあり弱くもある

節子
人は強くもあり弱くもある、そんなことを最近痛感しています。

昨日は数人の方が湯島に来たのですが、そのうちの、少なくともお2人は最近身内の大きな「不幸」に見舞われた人です。

お一人は、私と同じく伴侶を突然に亡くされました。
でも、そんなことは微塵も感じさせずに、そのことを知らなければ、だれも彼の心の奥底には気づかないでしょう。
事情を知っていればこそ、ちょっとした仕草に、奥底の思いを感じ取れるのですが、そこに触れることはたぶん彼の思いには沿わないでしょう。

その人のことをどれだけ知っているかで、同じ言動が全く違ってくることを、最近いろいろと体験しています。
以前、この挽歌でも、私の表情(元気そうか哀しそうか)はその人の思いの反映ではないかというようなことを書きましたが、立場を代えて、今はそう確信しています。

もう一人は、身内に大変なことがいろいろ立て続けに起こっている人です。
その人もまた、そうしたことを明るく話してくれるのですが、言葉の奥にある真意もまた伝わってきます。
これまでそうしたことを決して口にすることのなかった人であればこそ、その思いをますます強く感じます。
こういう時に人は死を考えるのでしょうか、と冗談めかして話す口調の奥にも、心の深遠を見る気がします。

私自身の状況が、そうしたことに少しばかり感度を高めているからかもしれませんが、そうした人と話すことが最近多いような気がします。
そして、その度に思うのが、人は強くもあり弱くもある、ということです。
同時に、強さも弱さも結局は同じなのだとも思います。

「人の言動は心の中の多様さを映し出す」とレオナルド・ダ・ヴィンチは言ったそうですが(かなり不正確ですが、主旨は合っていると思います)、そのことが最近少しわかるようになりました。
節子がいた頃は、そうしたことに全く無頓着で、節子の心の奥底などは感じようともしませんでした。
愚鈍で薄情な夫でした、
節子はどうだったでしょうか。
病気になってからの節子は、驚くほどに感受性を高めていましたから、私の心の奥底も見透かしていたことでしょう。
それに応えられなかった自分が、実に恥ずかしく惨めです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010/03/17

■節子への挽歌927:白いブーゲンビリアが咲いています

節子
新潟の金田さんが今年もチューリップを送ってきてくれました。
今頃は花が少ないでしょうから、ということで、毎年送ってきてくれます。
金田さんも今年はいろいろと大変で、あの金田さんがと思えるほどの「弱音」も聞きました。
やはりみんな歳には勝てないようです。

金田さんのお心遣いに反して、節子のまわりもこの季節もなぜか花でいっぱいです。
不思議なほどに節子は花を呼び込みます。

冬だというのになぜかブーゲンビリアが咲きました。
ブーゲンビリアは、本来は5月頃から咲き出すのに、今年は異常です。
そのうえ、ピンクだったはずなのに、なぜか白くなっています。
そういえば、節子は彼岸で「白い花」の手入れをしていると症崎さんは話してくれました。
そのせいでしょうか。

房総に家族で行った最後の旅行の時に、節子が記念にといって買ったシュスランもようやく咲きました。
年初から咲きそうな感じになっていたのに、なかなか咲きませんでした。
来週には咲くでしょう。
とても地味な花なのよね、と言って、節子はこの花を買いました。
本当に地味な花です。

地味な花も、艶やかな花も、節子はみんな好きでした。
湯島のオフィスの白いシクラメンも元気に咲いています。
花を見るといつも節子を思い出します。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010/03/16

■政界再編成の基軸と主役

自民党の鳩山邦夫議員が離党し、新党結成への動きをはじめました。
いよいよ政界再編成が動き出しそうな気配です。
が、しかし、果たしてこれをもって政界再編成だと捉えていいのかどうか疑問を感じます。
たとえ新しい政党ができても、その主役が今の顔ぶれであれば、そして今までと同じ手法であれば、何の変化も起きません。
いずれも「個人の所属体制の再編成」でしかありません。

政界の枠組みの変化や基本構造の変化が伴わなければ、政界のパラダイムは変わりません。
枠組みということで言えば、現在の政界の枠組みをどう捉えるかが重要です。
わかりやすい例で言えば、事業仕分けの時に小沢幹事長は新人議員の参加に反対しました。
これは旧来の政界の本質を象徴しています。
国政(目的)よりも選挙(手段)を優先させ、政界常識を社会の常識に優先させたわけです。

では今の民主党はこれまでと同じかといえば、そうではありません。
そうした旧来の政治屋を活用しながら、国政を革新しようという理念がそこにはあります。
そうした志を、私は鳩山由紀夫さんに感じます。

政界再編の主役は、新人議員であり、非官僚出身であり、政治のことをあまり知らないが故に献金問題を起こしている小林さんのような無垢の議員ではないかと私は思っています。

これまでの政界で活躍していた古手の政治屋が旗を振っているかぎり、政界再編などは起こるはずもありません。
政界の利権に寄生している政治屋家族が考える国政は、国民が考えているような国政ではないでしょう。
この国のいまのひどさは、そうした政治屋家族が作り出してきたことを忘れてはいけません。
民主党政権になったからといって、すぐに変わるはずもないのですが、寄生生活を長年続けてきた日本人はそれさえ理解せずに、昨年の政権交替の事実を大事にしていないのが残念です。
やはり自業自得なのでしょうか。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

■節子への挽歌926:不幸も幸福もない不幸

節子がいなくなって、何が変わったのでしょうか。
最近、そう思うことが時々あります。
この数日、挽歌を書きながら、その答がやっとわかった気がします。
「不幸も幸福もなくなってしまったこと」
それがたぶん答です。
人生がとても平板になってしまったと言ってもいいでしょう。

人生の喜怒哀楽は、それを共にする人がいればこそ、意味を持ってきます。
人間の感情は、個人の中に起きるのではなく、他者との関係の中で起きるようです。
そして、その感情はだれかと分かち合うことで意味を与えられ、増幅されるのです。
節子がいなくなってから、そのことに気づきました。
感情を評価する基準がなくなってしまうと、喜怒哀楽さえもが生命を失います。
すべての感情が宙に浮いてしまい定まらないのです。
不幸と幸福のコインの裏表さえわからなくなるのです。

そればかりではありません。
幸福が不幸に、不幸が幸福に、いとも簡単に裏返ります。
かつてであれば幸福だった場面も、節子に体験させてやれないという思いが浮かんだ途端に気持ちは奈落へと落ち込みますし、不幸な場面も節子を悲しませないですんだと思えば、心が安らぐのです。
したがってすべては中和され、幸せもなければ不幸もない、単調な人生になりがちです。
それが、「不幸も幸福もなくなってしまった」ということなのですが、それがいかに「深い不幸」か。

さらにもう一つの不幸が重なります。
「禍福(かふく)は糾(あざな)える縄(なわ)の如し」と言われますが、禍福がなくなってしまうことで、暮らしをつなぐ縄がなくなってしまうのです。
時間軸というか、時間期待というか、そういうものが消え去ってしまうのです。
その退屈さは、いささかやりきれないほどです。

こんな「不幸」はたぶん誰にもわかってもらえないでしょう。
わかってもらえる人がいたら、とてもうれしいのですが。

| | コメント (2) | トラックバック (1)

■トレッドミルからおりる生き方

挽歌編「止まってしまったトレッドミル」で、「この2~3世紀の経済が急成長したのは、「欲望のトレッドミル」を普及させたおかげ」と書きました。
それを受けての最近の私たちの生き方への反省です。
挽歌編の一部を繰り返します。

どんなに幸せで満足な状況になっても、人はすぐにその状況に慣れてしまい、欲望を強めて、さらなる満足を求めだすのです。
これを「幸福のトレッドミル」とか「欲望のトレッドミル」と言うそうです。
トレッドミルとは、ハツカネズミなどが回す踏み輪のことです。
昔は縁日などでよく見かけたものですが、最近はスポーツジムで人間がやっています。

スポーツジムであれば、トレッドミルもいいのですが、最近は社会全体がトレッドミル化しているような気がします。
自転車操業などという言葉もありますが、そんな生き方が広がっています。
カード社会といわれるアメリカでは収入を大幅に上回る支出をし、その返済のために働くという生き方が広がりすぎて問題になっています。
踏み輪にのって動き続ける姿は、70年以上前にチャップリンが「モダンタイムス」で描いた情景と同じです。
但し、モダンタイムスの時代では、雇い主が生産性を上げるために走らせていましたが、最近は自分の欲望を満たすために走り続けるようになっています。
しかし、それもみんながそれを自然に望んだわけではありません。
そう望むように、経済を方向づけてきている人たちが仕組んできたのです。
いわゆる「消費社会」の実現です。
生産者として走っていた人たちは、いまや消費者として走り続けているのです。

その踏み輪(トレッドミル)から外れたらどうなるか。
おそらく別の生き方が見えてくるはずです。
都会にいれば生活にはお金がかかりますが、都会から離れればお金をそれほどかけずに生きていけるはずです。
以前書きましたが、先入観を捨てれば、地方には仕事はいくらでもあります。
ただお金にならないだけの話ですが、最低限のお金があれば生きていけるように思います。
さらに、同じような思いの人たちと一緒になって汗と知恵をだせば、生きていく方策はみつかるかもしれません。

トレッドミルからみんなが降り出したら誰が困るでしょうか。
一番困るのはたぶん企業です。
そして次は行政でしょう。
「欲望のトレッドミル」をまわしているのは、実は私たち自身なのです。

経済が成長しなくても、みんなが豊かに暮らせる仕組みはできるはずです。
みんながそういう生き方に変えれば、環境問題も解決するでしょう。
一挙には難しいですが、そういう生き方を意識するだけでも、生活は豊かになっていくような気がしますが、これは単なる机上論の夢物語なのでしょうか。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010/03/15

■節子への挽歌925:止まってしまったトレッドミル

昨日、節子がいなくなった「不幸」はおそらく誰にもわかってもらえない、と書きながら思い出した言葉があります。
「幸福のトレッドミル」です。

人の満足度(幸福感)は際限がないほどに深いという話です。
どんなに幸せで満足な状況になっても、人はすぐにその状況に慣れてしまい、欲望を強めて、さらなる満足を求めだすのです。
つまり、いつになっても幸福は実現されないわけです。
これを「幸福のトレッドミル」とか「欲望のトレッドミル」と言うそうです。
トレッドミルとは、ハツカネズミなどが回す踏み輪のことです。
昔は縁日などでよく見かけたものですが、最近はスポーツジムで人間がやっています。
この2~3世紀の経済が急成長したのは、「欲望のトレッドミル」を普及させたおかげですが、このことは時評編で書くことにします。

人は、幸福にすぐ慣れてしまう特性を持っていますが、不幸にも慣れる能力があるといいます。
人類が生き残っていくために進化の過程で獲得した能力だという人もいますが、たしかに状況に適応する能力が高ければ生き残っていく確率は高くなります。
人類の進化などという大きな話でなくても、私たちの「生きやすさ」にも直結しています。
不幸に落ち込んでいると人はますます不幸の下り坂を滑り落ちがちです。
これは「不幸のトレッドミル」と言ってもいいでしょう。
私たちが乗っているトレッドミルは、前後双方に向いているのです。
もっとも、幸福も不幸も、結局はその人の考え次第ですから、客観的に幸福や不幸を分けることはできません。
ですから、実は「前後」に見えるようでいて、それは同じ方向を向いているのかもしれません。
以前も書きましたが、幸福と不幸とは結局は同じものなのです。

私にとって、いまのところこうしたトレッドミルは止まっています。
節子がいなくなってから、不幸も幸福も根本から感じなくなってしまったために、私の足踏みが止まってしまったのです。

いろんな人から私は「幸せだね」と言われます。
自分でもそう思います。
それは、今日の時評編に書いた、「不失其所者久」の生き方ができているからです。
しかし、ありのままに生きてはいますが、節子がいなくなってから、私の世界から「不幸」や「幸福」が無くなってしまったのです。
不幸も幸福もない不幸。
それをわかってくれるのは、節子だけだろうと思います。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

■知足と有志

昨日、「ねむるところと毎日の食事ができれば、それ以上のことは望まない」、という佐藤洋司さんの言葉を紹介しました。
それで思い出したのが、「知足」という言葉です。
よく聞く言葉ですが、私にはどこかに違和感がありました。
ところが、最近、「知足」には「有志」という言葉がセットになっていることを知りました。
このように、概念の一部が一人歩きすることは少なくありません。
一時期の「陰徳」という言葉もそうでした。
「陰徳」は「陽報」がセットになって、意味が完結しています。

「老子」には、「知足者富」に続いて、「強行者有志」と書かれているそうです。
それで早速、手元にあった「老子」を開いてみました。
第33章にこうありました。

知人者智。自知者明。勝人者有力。自勝者強。知足者富。強行者有志。不失其所者久。死而不亡者寿。
「強行者有志」。たしかにありました。
強(つと)めて行う者には志あり、として、志を持って進めと説いているのです。
現状に満足して甘んじよということではありません。
「知足」の意味が、ダイナミックに動き出すのを感じます。
時に儒教は、現状を肯定する諦観の思想と捉えられがちですが、「知足」という思想には、稼ぎ続けるというダイナミズムよりももっともっと強く厳しいダイナミズムを感じます。
ちなみに、知足者富の「富」も、もちろんお金や資産のことではありません。
お金をいくら持っていても、貧しい人はたくさんいます。
世間的な「富者」を見る外に向けたまなざしを、自分自身に向けよと、老子は説いているのです。
つまり、「自知」にして「自勝」、己を知り己に勝てというわけです。

さらにこの言葉に続く「不失其所者久」は昨日書いたことそのものです。
「己にふさわしいあり方を失わぬものは永続きする」。
ここにこそ、経営の基本がありますが、最近の企業はこれを完全に逸脱しています。
私が、経営の不在と言っている意味が、ここにあります。
経営者もたまには「老子」を読んでほしいものです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010/03/14

■儲けようと思わなければつぶれない

市場拡大を埋め込んだ経済の中で、企業の倒産や店舗の閉店がまだ少なくないようです。
ところが、私の娘やそのパートナーのお店は、世間の不況には無関係に元気です。
私の会社(㈱コンセプトワークショップ)も20年以上、続いています。
娘にお互いに運が良いなと話したら、儲けてないからつぶれないんだよ、といわれました。
考えて見ると、それは至言です。
倒産したくなかったら儲けなければ良いのです。

昨日、名古屋に一緒に行った郡馬のホテルの経営者(佐藤洋司さん)もそうでした。
儲けていないのでつぶれないのです。
儲けていないと言っても、損をしているわけではありません。
佐藤洋司さんは、こう言います。
ねむるところと毎日の食事ができれば、それ以上のことは望まない、と。
かといって、彼がサボっているわけではないのです。
自分の家に落ちつく間もないほど、飛び回って仕事をしています。

スペインタイル工房(Taller de JUN)をやっている娘も、イタリアンレストラン(エヴィーバ!」)をやっているその伴侶も、朝から深夜まで一生懸命働いているのに、決して収入は多くありません(金額をいうと怒られるのでやめます)。
もっとも、2人とも私に比べれば収入は多いのですが。
何しろ私は土日も含めてそれなりに働いていますが、昨年の収入は50万円でした。
但し、お金以外の収入は山のようにたくさんもらっていますので、生活は豊かです。
汗の量と稼ぎの量は、きちんとお天道様は見ているのです。

もちろん、儲けようとせずに、誠実に仕事をしていてもつぶれるところはあります。
それは健康に気遣っていても病気になることがあるのと同じです。
でも、儲けに依存しない生き方ができれば、儲けがない時期があっても無理をせずに生きつづけられます。
そんなワークスタイル(ライフスタイル)を目指すと、生きやすくなるように思います。
そういう生き方を子どもたちに教える文化が回復されれば、50年後には住みやすい社会になるのではないかと思います。

暮らすためのお金を稼ぐワークスタイルに切り替えたら、暮らすためのお金さえもない人たちにもお金が回りやすくなるかもしれません。
そして、みんなきっと今よりも幸せになるでしょう。
これは、私だけの夢物語でしょうか。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

■節子への挽歌924:私のための節子の生と死

節子
節子の生は、私のためのものだったのではないかと思うことがよくあります。
だとしたら、節子の死もまた、私のためのはずです。
そう思うと、節子への感謝の気持ちと不憫さとで、胸が苦しくなります。
あまりにも身勝手な生き方をしていた自分への怒りもあります。
「節子のために生きている」などと言いながら、現実は正反対だったわけですから。

しかしもし、この命題が正しいとしたら、私と節子を入れ替えても成り立つはずです。
私の生は節子のためのものであり、私の死は節子のためのものである。
ですから、正反対だったなどと後悔しなくてもいいでしょう。
それに、私の生の基準は、節子のためにこそあったのは、間違いない事実です。
もっともそれが的確に行われていたかは、自信はありませんが。

この2つの、もしくは4つの命題は、節子がいなくなった今も成り立つはずです。
いまもなお、私は節子のために生き、いつか節子のために死ぬわけです。
節子がそうであったように。

節子がいなくなった「不幸」は、おそらく誰にもわかってもらえないでしょう。
わかってくれるのは、おそらく節子だけです。
だから節子は最後の最後までがんばってくれたのです。
そう思うといろいろのことが見えてくる気がします。

節子のいない社会を生きることは、かなりさびしいものです。
しかし、節子もまた同じように、私のいない世界に行ってしまいました。
節子の不幸、さびしさもいかばかりでしょうか。
それが私の不幸をさらに高めます。
もし節子が彼岸で幸せにしているのであれば、どんなに安堵できることでしょう。
しかし、そうしたことは絶対にありえないのです。
なぜなら私はいま、節子の不在だけでこれだけの寂しさと不幸を味わっているのですから、節子もそれと同じ状況にあるはずです。

だんだんややこしくなってきましたが、節子なら「はいはい」と言って聞き流すでしょうが、
しかし、私たちは、いつもシンメトリックな存在でした。
おそらく今もなお、そうでしょう。
対角線の向こうに節子がいつも見えているような気がします。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010/03/13

■節子への挽歌923:まあるくなったカミソリの刃

節子
名古屋に行っていました。
自殺を思い留まった人たちの自立を支援する活動をしている人たちの集まりを開催したのです。
おそらく今回の集まりも、これまであまりなかった集まりでしょう。
いつもながら、とても考えさせられます。
昨日は企業や行政の人たちの集まりに出ていましたが、世界がまったく違います。
飛び交う言葉がまったく違います。
私には今日の集まりのほうが居心地がいいです。
そこに人間があり、心があり、現場があるからです。
涙もあります。
お金はあまりありませんが。

10日の時評編で紹介した、初めて新幹線に乗るという群馬のホテルの社長と東京駅で待ち合わせました。
彼は1時間も前に心配で東京駅に着いていたようです。
新幹線に乗れなくても、豊かに生きていけますよ、と彼は言います。
まったくその通りです。
企業の世界と生活の世界の大きな差を感じます。
お金持ちの貧しい世界とお金のない豊かな世界です。

企業にいた頃の私を、「カミソリのように切れるビジネスマン」と書いてくれたライターがいます。
幸いにその本はあまり売れなかったので、誰の目にも止まらなかったでしょうが、そんな時代もあったのです。
その私が、ビジネスの世界から離脱し、生活の世界に移れたのは、節子のおかげです。
節子は、私のカミソリの刃をまあるくしてくれました。
そのおかげで、私の世界はとても豊かになり、生活の人になれたのです。

節子がいたら、最近の私の生き方をどう評価してくれるでしょうか。
まだまだ理屈が多くて、自分を出しすぎるというでしょうね。
節子が元気だった頃、私はいつも節子に注意されていましたから。
先生がいなくなったのが、とても残念でなりません。
注意してくれる人がいないのも残念ですが、なによりも、褒めてくれる人がいないのがさびしいです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

■住民が求めている暮らしと経済

最新号の軍縮問題資料(2010年4月号)に、立命館大学非常勤講師の池尾靖志さんが「沖縄の『軽減』負担とは何か」という記事を寄稿されています・
同誌には毎号、「森口豁の沖縄じゃーなる」という記事も連載されているのですが、その記事のブログ版で、沖縄のやんばるの森・東村高江の米軍ヘリ着陸帯(ヘリパッド)建設問題に関連して、座り込むなどの反対運動をしていた住民たちを国が起訴したという恐ろしい記事を読んでいたため、「高江の現場から」というサブタイトルに魅かれて読んでみました。
池尾さんは、辺野古は報道されるが、なぜ高江は報道されないのかと怒っていますが、私も森口さんのブログを読むまでは、高江などという名前さえ知りませんでした。
沖縄に関する現地情報は、マスメディアには極めて偏ったものしかでてこないのです。

高江の住民運動起訴事件は、ぜひ森口さんのブログ(沖縄日記)を読んでみてほしいですが、私が今回、池尾さんの論文で心に残ったのは、次の文章です。

2月に行われた(政府の)住民説明会では、高江区に暮らす人々の安全を度外視し、豊かな自然の中で静かに暮らすことをのぞむ地元住民の声を圧殺するかのように、一方的に説明が行われた。
「豊かな自然の中で静かに暮らすことをのぞむ地元住民」。
私はこれこそが多くの国民の願いだと思っています。

池尾さんの論文によれば、高江は、イタジイやオキナワウロジロガシなどが優先する自然林の残されたやんばるの森の中に位置するのだそうです。
ところが、その高江の集落を取り囲むように、ヘリコプター着陸帯が建設されようとしているのだそうです。
状況は民主党政権になっても変っていないようです。

森口さんはブログで、「これが出来たら四六時中大型ヘリが飛び回って離着陸を繰り返し、住民の静かな生活が奪われるのは明らかだ」と書いています。
もし私がそこの住民であれば、多分座り込みに参加したでしょう。
もしそうであれば、私も起訴されたわけです。

昨日の時評の続きですが、生活者の立場に立てば、経済成長よりも「豊かな自然の中で静かに暮らすこと」を望む人が多いはずです。
わずかばかりの「資産家」願望者のために、国民の多くは生活よりも経済が大切だと思い込まされています。
馬鹿げた話ですが、そうした労働者が多くなければ、最近話題の高額資産家などは生まれないのです。
彼らはどんな理屈をつけようと、貧しい人たちを犠牲にして高収入を得ているわけですが、彼らにはそうした恥の意識や罪の意識はないでしょう。
むしろ資産家リストに載ったことを誇りに思っているでしょうが、私には彼らは恥ずべき人間だと見えてしまいます。
そんなにお金を集めて、一体何をするのでしょうか。

「豊かな自然の中で静かに暮らすことをのぞむ地元住民」を基本にした政治や経済は考えられないのでしょうか。
一番大切なものが見失われていることが、とても腹立たしいです。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2010/03/12

■茨城空港の愚挙を支える国民の常識

日本最後の地方空港、茨城空港が開港されました。
全く馬鹿げた話ですが、政財界はどこまで税金を無駄遣いすれば終わるのでしょうか。
たぶんまだまだ続くでしょう。
そう思ったのは、その報道を見ていて、こうした動きが「地方の活性化」につながるという発想と活性化とはお金が落ちる仕組みを創ること、お客様が増えることだという発想に支えられていることを改めて感じたからです。
少しだけ批判的な目もある報道ステーションでさえそうでした。
韓国からの観光客を増やした秋田空港が「成功事例」として紹介されていました。

いまの日本を救うためには「成長戦略」が必要だと多くの人は思っています。
そこでの「成長」はほぼ「需要拡大」「市場拡大」の意味です。
私の発想とは180度違います。

観光客が増えてどういう意味があるのでしょうか。
誰が利益を得て、誰が損をするのか。
かつてのリゾート開発から学んでいないのでしょうか。

茨城空港がある小美玉市には、すばらしい文化センター「みの~れ」があります。
おそらく日本で一番元気のいい文化センターではないかと思います。
その文化センターづくりに、私は関わらせてもらいました。
最初に呼ばれて住民たちの集まりでお話させてもらったのは、お金をかけて文化センターを作るよりも、その費用を住民に配って東京のサントリーホールに行ってもらうほうがいいのではないかという話です。
もちろん私は本気でそんなことを考えていたわけでありません。
「文化」の概念や公共施設の概念を壊したかったからです。

そして、文化センターを創るのではなく、自分たちの地域の文化を考えるというところに視点を移し、そのために必要な「文化センター」の仕組みを考えるという方向に変えていきました。
私の思いがどのくらい伝わったかは余り自信がありませんが、それでもすばらしい文化がそこには生まれだしているように思います。

観光開発とは観光客を集めることではありません。
集めた観光客はいつか集まらなくなります。
観光の意味をと直すべきです。原点に返らなければいけません。
飛行機を飛ばして、観光スポットをつくって、特産品を創って、観光客を呼んでどういう意味があるのでしょうか。
一部の経済関係者は利益を売ることになるかもしれません。
それは悪くはありませんが、それで失うものはないのでしょうか。
地域が元気になるとは、経済が発展することではありません。

日本全体のことを思い出しましょう。
一時期、日本は世界に冠たる経済大国になり、一人当たりGDPも世界2位にまでなりました。
いまはもうかなり下位に下がっていますが、それよりもその一時期の経済大国を目指して走ってしまったために社会は壊れ、おかしくなってしまいました。
自殺者も多ければ、家庭も壊れだしています。
そんな体験をみんなもう忘れたのでしょうか。
みなさんは未来に希望と安心をお持ちですか。

そろそろ「需要増加至上主義」から抜け出さなければいけません。

茨城空港は全く違った発想で組み替えていかないかぎり、おそらく税金の無駄遣いで終わるでしょう。
国家が持続できる間は辻褄を合わせ続けるでしょうが、その間にどれほどの税金が使われるか。
せめてその一部でも生活保障に使ってほしいものです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

■節子への挽歌922:葬儀への不義理

節子
訃報が届きました。
最後に会ったのは10年ほど前でしょうか。
かなり歳の離れた従兄弟の伴侶です。
今年になってから2人目の縁戚の訃報です。

不謹慎な言い方ですが、私は結婚式よりも葬儀のほうが好きでした。
なぜか安堵できるのです。
それに比べ、結婚式の、あの華やいだ雰囲気が、昔からどうも馴染めないのです。
根が暗いのかもしれません。
葬儀はなぜ落ち着くかというと、そこに真実や生命を感ずるからです。
見送る人に、みんな心を向けている雰囲気は、心が落ち着きます。
やはり、根が暗いですね。いやはや。
それに、葬儀では、久しぶりに会う人がいて、その人とゆっくり心を通わせ合えるのも心が和みます。
結婚式だと、なかなかそうはいきません。
それに結婚式での食事が私には苦手です。

それはともかく、葬儀で読経のなかでのその人との別れは、いろいろなことを考えるきっかけをもらえます。
ところが、節子を見送ってからは、葬儀に行くのがとても気が重くなりました。
なぜでしょうか。
あの日を思い出すからでしょうか。
節子の通夜、あの日は実に不思議な日でした。
私は、それまでとはまったく違った世界にいました。
もう2度と再現できないでしょう。
会堂の薄暗い広い部屋に、永遠の眠りに着いた節子と2人きりでした。
そこで節子は、私の心の奥底に話してきました。
そのおかげで、翌日の告別式で話ができたのです。
それにしても、あの時は、いま思い出しても、自分がこの世にいるとは思えないような不思議な時間でした。
そのことを思い出してしまいそうなのです。
身震いがします。
なぜか大原の勝林院の異形の仏を思い出します。
そんなわけで、不義理なのですが、葬儀にはまだ行けずにいます。
今回も、先約があったのを幸いに不義理をさせてもらうことにしました。
節子は怒っているかもしれません。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010/03/11

■節子への挽歌921:不条理さへの怒り

昨日、Oさんの不条理について書きましたが、
節子よりも、Oさんの奥様よりも、若いKさんもまた、不条理に自由を奪われた一人です。
節子と同じく、検査で病気が発見されました。
それを知った時に、どう対処していいか、わかりませんでした。
節子がいたら適切な応対ができたでしょうか、節子のことがあればこそ、どうしていいかわからなかったのです。
声のかけようさえ思いつきませんでした。
できるのは、毎朝、節子と一緒に彼女の平安を祈るだけです。

彼女は自らのブログを書いています。
以前は毎日書いていましたが、病気になってからは断続的です。
読むのが苦しい内容もあれば、ホッとする内容もあります。

先日、意を決してメールしました。
すぐに返信がありました。
以前のKさんと同じです。

うれしいこともありますが、ほとんどは苦しいことが続いています。
がんとの闘病とはこういうことなのか、と改めて感じてしまいます。
文字の後ろにあるKさんの思いが伝わってきます。
それは私たちの思いでもありました。
私も節子さんのことをよく思い出しています。
がんで亡くなった友人たちのことも頭に浮かびます。
みんな、つらかったのだろうなと思うと、自然に涙が出てきます。
私も毎日、死というものと向き合うようになって、
ようやくがん患者の気持ちがわかるようになりました。
1日1日を大事に生きていこうと思います。
勝手に引用してしまいました。
このメールにも、どう応じていいか、わかりません。
共通の友人は、私が考えすぎだといいます。
でも節子との4年半を思い出すと、一言の言葉さえもが、世界を壊すことがあるのです。

今年はKさんにとっては輝かしい年になるはずでした。
不条理な定めに怒りを感じます。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010/03/10

■得手不得手

群馬の山奥でホテルを経営している社長から電話がかかってきました。
13日に、名古屋である集まりがあり、その人もそれに参加するのですが、今まで自動車での行動が多く、新幹線に乗ったことがないす。
それに電車の切符の買い方も良くわからないというのです。

その人は私よりもずっと若く、ホテルを経営しながら、半端ではなく社会活動もいろいろとしている人です。
その人を頼って、いろいろな人が相談に来ており、それこそ自分の生活を犠牲にしても、そうした相談に乗っている人です。
私などよりもずっと生活力のある人ですし、怖いもの知らずという感じの人です。
ところが東京も新幹線も怖いと言うのです。
どんなにパワフルな人でも、不得手はあるものです。

昨年、東京のあるイベントに来てもらった時は社員を一人同行させていましたが、今回は一人です。
私は、その時に初めてその人に会いました。
その関係で、電話がかかってきたのです。

それで私が乗る新幹線の時間と座席を教え、それにできるだけ近くの席を取るように言いました。
夕方、その人から、駅に行って買ってきたが、この座席で近いかと電話がかかってきました。
なんと私の隣の席です。
よくまあ空いていました。
問題は、群馬の山奥から東京までどうやってくるかですが、まあそこは大丈夫でしょう。

1か月ほど間、新潟の人から資料を送りたいので住所を教えてくれと電話がありました。
この人は優秀なセールスマンで、表彰されてアメリカまで招待された人です。
住所を伝えたら、自分は英語は得意だが日本語は不得手なので、ファックスしてくれといわれました。
私はファックスが嫌いなので、簡単だから電話で伝えるよと押し切って、口頭で伝えました。
しかし、もう1か月近く経ちますが、資料は届きません。
英語は得意でも、また話術は得意でも、電話で住所を書き止めるのは不得手なのかもしれません。
念のためにいえば、彼は純粋の日本人です。

人には得手不得手があります。
とんでもない能力を持っている人がいるかと思うと、まさかと思うような簡単なことができない人がいます。
まあ、私もそういう面があるのですが、だからこそ人との付き合いは面白いです。

私の周りにはどうしてこうもおかしな人が多いのだろうかと思うこともあります。
やはり、おかしい人の周りには、おかしい人が集まるのでしょうか。
でももしかしたら、おかしいのは他の人たちで、私も含めて、おかしい人と思われている人の方が実は「おかしくない」のかもしれません。
どう思われますか。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

■節子への挽歌920:「日々の生活はそれなりにすごせることが不思議です」

先日、奥様を急に亡くされたOさんからメールが来ました。

雑事に追われ、あっという間に49日が過ぎました。
家内が日々光の速さで遠ざかっていくのが実感されます。
昔読んだチベット仏教の死者の書のイメージが実感されます。
しかし突然に思い出され なんともいえない現実に直面するにつけ、喪失感と痺れ感を感じますが、その頻度も少なくなることを期待しつつ日々をすごしています。
私たちより少し若いOさん夫妻の不条理な別れは、本当に突然だったそうです。
おそらくOさんは、まだ信じられずにいるでしょう。
そのくせ、「光の速さで遠ざかっていくのが実感される」という不思議な気持ち。
私もそうでした。
そうした矛盾する気持ちが、時間の流れを超えて、無秩序に往来する体験は、私も味わいましたし、いまもなお、完全にはそうした状況からは抜けられずにいます。

節子もそうでしたし、私もそうでしたが、
これからという時に、神様は突然に自由をもぎ取ってしまうのです。
不条理としか言いようがありません。
Oさん夫妻も、間違いなく、そう感じているはずです。

Oさんのご実家は八朔をつくっていて、毎年、Oさんは奥様と一緒に収穫していたそうです。
そのお話は、前に聞いたことがあります。
しかし、今年は奥様がいません。

今年は家内抜きでやりました。
日々の生活はそれなりにすごせることが不思議です。
当たり前ですが、これが現実ということと了解しています。
残されたものは今までどおりの生活を送るのみです。
Oさんの、深い思いがあふれています。
「これが現実」。
心に響きます。これほど響く言葉はありません。

Oさんが送ってきてくださった八朔はとても美味しく、涙が出ました。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010/03/09

■政府の嘘と信頼感

日米間の「密約」を検証してきた有識者委員会の報告書が提出されたそうです。
テレビやネットでその報道を見ましたが、実態がよくわかりません。
ただ、歴代の首相が知りながら「嘘」をついていたこと。
外務官僚は、国民には話してもわかってもらえないだろうと思っていたこと。
外務官僚は証拠隠滅を図っていたこと。
この3点は、私にもわかりました。

当時の世界状況から「密約」があっても、私には不思議ではありませんし、政府にはそんなことはいくらでもあるとさえ思っています。
ただ上記の3点に関してはとても不信感を持ちます。
首相や政府が国家を私物化していることがよくわかります。

私は、自分の生活信条として、
「嘘をつかない」「人や自然を信頼する」
の2つは大切にしています。
それと正反対のことを日本の政府や首相はやっていたということにはがっかりします。
嘘を言うことと真実を言わないことは違います。
その時は無理でも、状況を見ながら、時間をかけてきちっと説明することを考えることもできたはずです。
ましてや「真実を語るもの」を廃棄するのは言語道断です。
年金や薬害や公害などの関係でもそうですが、不都合だからといって資料を廃棄してしまうような行為はおかしいです。
廃棄する人の「勇気」には驚きますが、それこそ取り替えしのつかないこともあるはずです。

密約の存在は日米関係の問題ですが、密約をどう扱うかは国内問題です。
これまでの日本政府の本質を示しています。
岡田さんがこの問題に最初に取り組んだことに、私は日本政府の自立を期待しました。
隷属的存在だった自民党政府とは全く違う、新しい政府の誕生を予感しました。

しかし、残念ながら、相変わらず国民は「個人政治家とお金」の問題に目を向けて、本質を見ようとしません。
私にとっては、小沢さんや鳩山さんのお金の問題など、瑣末な話なのですが、みんなにとってはどうもそうではないようです。
たかが数十億円程度のお金で騒いでいる馬鹿らしさになんで気づかないのでしょうか。
私の期待はぬか喜びだったようで残念です。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

■節子への挽歌919:つかの間の自由

昨日の時評編で、「私たちの生は自分でコントロールしているようですが、実際にはそうではないように思います」と書きました。
今日の挽歌は、そのつづきです。

大きな生命現象の中で、わずかばかりの自由を楽しんでいるのが人生かもしれません。
その「わずかさ」は、考えようによっては「無限」なほどに大きいのですが、私たちが思っているほどの自由さはないようです。
それが証拠に、ある時、突然に不条理な生の剥奪があるからです。
わずかばかりの自由を、慎ましやかに過ごしていた節子から、それを奪うことはないと思いますが、それが定めなのでしょう。
代われるものなら代わりたいと思う事例は少なくありません。
しかし、こればかりは代わることができない。
人智のおよぶところではないのです。

私と節子との出会いがそうであるように、私と節子との別れもまた、定まっていたのでしょう。
それを知らなかったのは、私だけかもしれません。
もしかしたら節子はある時にそれを悟ったのかもしれません。

節子は手術後の半年間はよく泣きました。
しかし、ある時に自分で紙に3つの言葉を書き出しました。
感謝、勇気、大きな声。
節子にとっての最初の課題は「大きな声」でした。
その3文字が、実際に節子のものになるまでには、1か月以上はかかったでしょう。
しかし、次第に節子は変わりました。

いまから思えば、あのころ、節子は私との別れを知っていたのかもしれません。
私も、意識下の世界で知っていたのかもしれませんが、そんな不条理は、まだ現世だけで生きていた私には見えるはずもありません。

それから私たちは、つかの間のささやかな自由を生きました。
節子とはよくバス旅行に出かけました。
ハイキングにも行きましたが、節子は私の勝手なハードな行動にも付き合ってくれました。
しかし、その自由な2年間も、私にはたくさんの悔いが残ります。
もしそれが「つかの間の自由」だったのであれば、もっともっとやることがありました。
やり残したことの多さは、リストに書き出したら際限なく続くでしょう。
そうした「悔い」が、もしかしたら、いまなお私が節子に未練を感じ、愛を忘れられない理由かもしれません。
だとしたら、すべては仕組まれていたのかもしれません。

私がこれからどう生きるのか。
知っているのは、節子と神(天)だけなのかもしれません。
つかの間でしかない、わずかばかりの自由を、大切にして生きていきたいものです。
しかし、ほとんどの人は、もちろん今の私も含めてですが、自由が突然に終わることなど受け入れられずに生きているような気がします。
節子は、やはり尊敬に値する、そう思っています。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010/03/08

■「最初の1行は神からくる」時評編

「詩の最初の1行は神からくる。2行目からは人が作る」
今日の挽歌の書き出しの1行です。
挽歌を書いていてつくづく思うのは、「最初の1行は神(外)からくる」ことの神秘です。
時評のほうは「書くこと」が決まってからパソコンに向かいますが、挽歌は何も考えずにパソコンに向かうと自然と書き出しの文章が浮かんでくるのです。

これは挽歌だけの話ではありません。
おそらく私たちの日常生活においてもそうなのでしょう。
私たちの生は自分でコントロールしているようですが、実際にはそうではないように思います。
後から考えると、なぜあの時、あんなことをしたのかと自分ながらに不思議に思うことはよくあります。
小賢しい個人の判断を超えた、大きな声が私たちを動かしているとしか思えません。
しかしそうした声に私たちは応えられなくなってきているのかもしれません。

そう思ったのは、先週のチリ地震の余波で起こった日本での津波に関する報道を見ていたときです。
テレビで話題になっていますが、今回はしっかりした避難警報が出たにもかかわらず多くの住民はその警報をあまり尊重しませんでした。
なぜ避難しなかったのか質問された古老が、海を見ていて、この海なら大丈夫だと思ったと答えていました。
その人にとっては、科学的な予測よりも自然が示す表情のほうが信頼できたのです。
科学的な予測よりも自然からのメッセージのほうが正しいと言うつもりはありませんが、私たちはもっと自然からのメッセージに耳を傾けるべきではないかと思いました。
自然と話し合う能力を、私たちはどんどん失っていることは間違いありません。

環境問題や持続可能性が議論されていますが、その出発点は自然とどう付き合っていくかではないかと思います。
自然環境を壊した技術が、自然環境を回復させるなどという発想は、私には考えられません。
自然との付き合い方を変えることは、とりもなおさず「技術のパラダイム」を変えることです。

古老の言葉は、私には神の啓示のように聞こえました。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

■節子への挽歌918:「最初の1行は神からくる」挽歌編

「詩の最初の1行は神からくる。2行目からは人が作る」という言葉があるそうです。
だれの言葉かがどうもわかっていないようですが、とても印象に残る言葉です。
詩もそうでしょうが、文章はすべてそうなのではないかという気がします。
この挽歌もそうです。

パソコンに向かうとほとんどの場合、言葉がでてくるのです。
そしてそれに従って書いていく、それがこの挽歌のつくりかたです。
もっとも私は「神」には違和感があり、むしろ私風にいうと、
「最初の1行は外からくる。2行目からは自分が作る」
という感じですが。

私にとっての「外」は、最近では「節子」です。
節子の思いが私を動かしていると感ずることも少なくありません。
その「節子」はしかし、単なる媒体なのかもしれません。

こういうことです。
私は節子との絆によって、節子とつながっていました。
節子はまた、私以外のだれかと絆によってつながっていたでしょう。
両親や兄弟姉妹、仲の良い友人、その度合いは違っても、いろいろな人と心でつながっていたはずです。
そうした節子を通したたくさんの生命や思いが、節子を媒体にして私に働きかけてくるということです。

もちろん私には節子とは別の絆の媒体はありますが、いまは節子へのルートが圧倒的に大きくなっているが故に、節子を通してつながっている「外の世界」の影響が大きいのです。
パソコンの前に向かうと書く文章が浮かんでくる。
いまもどこかで節子とつながっている気がします。

もっとも何も浮かんでこないこともないわけではありません。
その時は、節子は何をしているのでしょうか。

今日は、時評編もこの話題を書くことにします

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010/03/07

■民主党政権転覆計画の陰謀

いささか「物騒な」メールが流れてきました。
最近出版された副島隆彦さんの「世界権力者人物図鑑」という本の紹介です。
その記事はJanJanに詳しく投稿されていますので、お読みください。

私はこの本のことを知りませんでしたが、その本の「はじめに」で、著者はこう書いているそうです。

「今日本の政治は緊急事態に突入している。
2009年末から鳩山民主党政権を転覆させるクーデター計画が実行に移されている。
これは日本検察庁(オール官僚機構)と大手テレビ・新聞を使っての政府転覆の企てである」

いささか物騒な表現ですが、私の実感にはぴったり当てはまります。
しかもこの企ては、残念ながら成功しそうな状況ですが、どうしてこんなにも明らかな構図が多くの日本人たちにはみえないのか不思議です。
若い頃読んだ筒井康隆の「48億の妄想」を思い出します。

ホームページで以前紹介したことがある「犬と鬼」、あるいは「泥棒国家の完成」などで、すでに多くの外国人から日本のおかしさは指摘されていますが、日本人はあまり関心がありません。
郵政民営化などは、私には「おれおれ詐欺」の変形だとしか思えませんが、なぜか日本人は熱狂して私たちの財産を私的な資本に引き渡してしまいました。
それを主導した「犯罪者」は今も人気者です。
やりきれない気分ですが、それもまた現実です。

そうした状況を考えれば、たぶんこの「転覆計画」(もしそんなものがあればですが)は成功するでしょう。
主体的に反対しようがないほど、みんな気がつきもしないでしょうから。
教育予算を削減することによって(教育予算は先進国では最低水準のようです)、国民を痴呆化する政策を続けてきた自民党政権の目論見は見事に成功しました。
私の周りには、まともな感覚を持っている人は極めて少ないです。
いや、もしかしたら私が落ちこぼれで、私だけが痴呆化しているのかもしれません。
まあその可能性のほうが高いですね。
すみません。

久しぶりにまた、暴論を書いてしまいました。
それにしても、マスコミ報道はもう少しどうにかならないものでしょうか。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

■節子への挽歌917:また昔の節子の手紙が届きました

節子
6年前にあなたが根本さんに出した手紙が根本さんから送られてきました。
たぶん私に元気を与えようと根本さんは送ってくれたのでしょうが、いささか複雑な気持ちです。
しかし根本さんのお気持ちはうれしく思います。

根本さんは、節子が元気のない時に、元気づける音楽CDや本などを送ってきてくれました。
彼自身もあまり体調はよくない上に、いろいろと難しい問題を抱えていたにもかかわらず、私たちのことをとても心配してくれていたのです。
困難や哀しさに合うほどに、人はやさしくなることを、根本さんからは教えてもらっています。

根本さんはいまもあまり体調はよくありません。
実は、手紙を投函したようなメールが届いたのが昨年なのですが、実際にわが家に届いたのは昨日でした。
まあそれが根本さんの時間軸なのです。
私にも少し似たところがあるので、私はすんなりと受け入れられます。

1年分の手紙でしたので、さまざまなことが書かれていました。
根本さんも苦境にめげずに、いつものように、前向きに明るく過ごされているようです。
その様子を手紙で読んで、とてもうれしく思います。
節子がいたらきっと笑いこけながら読んだことでしょう。

手紙が届くと同時にメールも来ました。 

「手紙」には「言い訳タラタラ」です。
その中には、「先生」にお話ししていなかった品も入っております。
しかし、私「気になる事」があります。
「先生」の「挽歌」を読みますと「傷口」を逆なでしてしまうかも知れません。
根本さんは出会いの関係で私のことを「先生」(単に先生ではなく、カッコ付です)と呼ぶのですが、まあそれは仕方がありませんが、傷口を逆なでするかもしれないのが気になるのであれば送らなければいいのですが、そこが根本さんの根本さんらしいところなのです。
困ったものです、はい。

根本さん
逆なではしていませんのでご心配なく。

久しぶりに節子の手紙を読みました。
それと当時の節子の生活ぶりも思い出しました。
節子はこうやって、今なお、私の生活に深くつながっています。

根本さん
ありがとうございました。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010/03/06

■「JANJAN NEWS」の休刊

最近、新聞やテレビのニュースもあまり見なくなりました。
新しい事実がなにも語られていないのではないかという気もしてきているのですが、一番の理由はどうも違和感をもってしまうからです。

社会構成主義というのが、一時期、話題になったことがあります。
社会に存在する事実や物事は、客観的事実ではなく、すべて人々の頭の中で(感情や意識の中で)作り上げられたものであり、そうしたことの社会的コミュニケーションによって支えられている、という理論です。
とても納得できます。
狭い家庭内での物事であれば、ある程度、現場も確認できますが、新聞やテレビで話題になるような事件や物事については、私たちは必ず「誰かの目と頭」を通して知るわけですから、客観的などということがあるはずもありません。
すべては、「つくられたもの」でしかありませんが、私たちはそれを事実だと思いがちです。
そうしたことに気づけば、今起こっている様々な政治事件や経済事件、時には犯罪でさえも、事実とはほとんど切り離された物語でしかないことに気づかされます。

であればこそ、さまざまな目と頭での報道が重要になります。
大新聞やテレビがお金に影響されていることはいうまでもありませんので、それに対する抵抗力としての報道機関や情報流通システムが大事になってきます。

市民ジャーナリズムとして期待され、私の知人友人も何人かその記者をやっていた日本インターネット新聞社の「JANJAN NEWS」が今月で休刊になります
休刊のお知らせによれば、「急激な広告収入の減少」「WEBサイトの技術的遅れ」「マスコミなどでの市民視点の取り込みの動き」と書いてありますが、その背後になにがあったかということで、いろいろなメーリングリストで憶測記事が流れています。
そうした情報のほうが、私には納得できます。
つまり市民ジャーナリズム潰しの動きです。

私の書いている、この程度のたわいのないブログにさえ脅しや嫌がらせはきますので、市民ジャーナリズムにはたくさんの嫌がらせが届いていることは想像できます。
メーリングリストでさえも、仲間内の惨めな誹謗中傷や嫌がらせの投稿は少なくありませんから、異論をつぶそうとするのは人間の業なのかもしれません。

しかし、市民ジャーナリズムが育っていかないのはとても残念な気がします。
「JANJAN NEWS」は休刊になりますが、これまでの記事は読めるはずです。
ぜひ多くの人に読んでもらいたいです。
大新聞やテレビがいかに偏った報道をしているか、きっとわかってもらえるはずです。
もちろん「JANJAN NEWS」も偏っていますが、多様な視点で物事を見ることが、今のような変革期には大切なのだろうと思います。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

■節子への挽歌916:節子がいたらなあ

最近、自然と口から出てくる言葉があります。
「節子がいたらなあ」です。
なにしろ以前は何かあればすべて節子に言っておけばどうにかなったので(実際にはそうでない場合も少なくなかったのですが、気分的には節子に話すととりあえずはそのことを忘れることができました)、そうできないために、いろんなことがどんどんたまっていく感じです。

娘たちがよくしてくれるので、生活の不便は全くないのですが、やはり長年連れ添った節子とは対応の仕方が違います。
時には、そこまではやれないよ、などと言われてしまいます。
もちろん私の方にも少しは「遠慮」がありますから、ついつい、「節子がいたらなあ」と口に出てしまうわけです。

以心伝心という言葉がありますが、私たちはまさに以心伝心でした。
いや、おかしな言い方ですが、本人が思っている以上のことが相手に伝わり、思っている以上のことをお互いにしあっていたような気がします。
しかし、それも特に相手を気遣っての結果ではなく、自然とそうなるのです。
まさにこれこそが「ホスピタリティ」の真髄かもしれません。
気遣うことと気遣われることは同じものなのです。
そうした伴侶の存在があればこそ、私はなにひとつ心配することなく、気楽な人生を送れていたのです。
節子がいなくなって、初めてそうしたことがわかってきました。

最近、私の周りでも実にさまざまな問題が発生します。
どう対処していいか、悩むことも少なくありません。
節子がいたら、一緒になって、何かをすることができることも少なくありません。
でも私一人だとなかなか難しい。
節子がいなくなったのに、私はまだ節子に依存しているのかもしれません。
まだ「節子がいたらなあ」などと未練がましく口に出しているのですから。

節子一人では頼りにはならない存在でしたが、夫婦になると節子は、本当に頼りになる伴侶でした。
おそらく私もそうだったのかもしれません。
しかし、一人になってしまうと自立さえしていけなくなるのですから、困ったものです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010/03/05

■何を基準に考えるかが大切です

地域ごとに異なる時期に大型連休を取得する「祝日法改正案」が今国会に提出されるという報道がなされています。
政府がいかに産業寄りであるかが象徴されている動きです。
休日は何のためにあるのか、考えさせられます。

今回の法改正には、混雑緩和で観光需要を喚起する狙いがあるそうです。
政府は「休日革命になる」と意気込んでいるという報道もありますが、政府にとって「祝日」は「市場」に見えているようです。

私自身は祝祭日には大きな意味を感じていますが、最近は、年によって祝祭日が変わってしまうのでとても気分が悪いです。
祝日は単なる休暇や消費日ではないはずです。

最近は、いろいろなことが「経済」や「市場」から考えられているような気がします。
祝日は、「生活」や「文化」から考えるべき問題ではないかと思いますが、多くの人は「労働」や「市場」から発想します。
ここで「労働」とは「消費活動」のことです。
最近では、多くの人は平日には生産活動という労働に従事し、休日には消費活動という労働に従事しています。
いささか極端にいえば、生活さえもが消費活動になっている人が少なくありません。

何を基準に考えるかは、重要な問題です。
それによって問題の見え方は全く変わってしまうからです。

昔、日本人は「エコノミック・アニマル」と揶揄された時代がありましたが、祝日さえも経済的に発想する日本人は、やはり今でも変わっていないのかと、いう気がします。
文化さえも経済化してしまった日本人ですから、仕方ないのかもしれませんが、哀しくてなりません。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

■節子への挽歌915:箸ピーゲーム

節子
今日は昨日までと一変して、春の陽射しです。
自然の変わり身の見事さは、いつもながら、ただただ驚くばかりです。

国際箸学会理事長の小宮山さんが、箸ピーゲームセットを送ってきてくれました。
先日、湯島に最近の話をしに来てくれたのですが、その時に話題になったので、私にもぜひやってみろというわけです。
小宮山さんがこの活動を始める時に、どういう形で展開するのがいいか相談に来たのですが、その直後、節子の具合が悪くなってしまったので、大会にも参加できずに、まだ入会もしていません。
しかし活動は順調に広がっているようで、とても嬉しいです。

小宮山さんは「気配りミラー」で有名なコミーの社長です。
最近もテレビの「夢の扉」で取り上げられていましたが、節子がいたらきっと喜んだでしょう。
テレビや新聞で小宮山さんを見ると、いつも私に教えてくれていました。
小宮山さんは、私たちのオープンサロンにも時々来ていましたので、節子も良く知っていたのです。
湯島にはいろんな人が来ましたので、節子もいろんな人に会っています。
最初はそれが節子には気が重かったようですが、小宮山さんのような気さくな会社社長に会うと、節子の持っていた先入観もなくなり、人はみんな同じなんだというようになり、最後のころは節子の世界も大きく変わっていたはずです。

小宮山さんはその後、巣鴨で自分のサロンを始めてしまいました。
そしてついに国際箸学会なる、楽しいサロンをスターとさせ、今は実に楽しんでいます。
楽しんでいるだけではありません。
箸で世界が変えられると思っているのです。

私は、箸使いがうまくありません。
節子にいつも注意されていました。
ですから節子がいたら、彼女は間違いなく箸学会に入り、箸づくりも楽しんだはずです。
私も一時期、節子に頼んで箸袋をつくって箸を持ち歩いていましたが、それもまあせいぜい1か月しか続きませんでした。

ところで、小宮山さんが送ってくれた「箸ピーゲーム」ですが、これは殻つきのピーナツを箸でつまんで動かす数を競うゲームです。
節子がいたら早速やって見るところですが、一人だとちょっとその気が起きません。

それで近々、湯島で箸ピーゲーム大会を企画しようと思います。
国際箸学会および箸ピーゲームについては、ぜひ国際箸学会のホームページをご覧下さい。
とても奥が深いことがわかります。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010/03/04

■世代間で争うのはよくないですよね

一昨日、子どもを産みやすい社会をテーマにした小さな集まりをやりました。
そこで、若い女性から私たち世代に突きつけられた質問が2つありました。

20年前までは、女性の社会進出を盛んにそそのかしていたのに、最近は同じ人たちが少子化が問題だと叫んでいる。そこに矛盾を感ずるが(女性が会社勤めを始めたので子どもを産みにくくなったと彼女は考えています)、女性の社会進出をどう考えているのか。
これが第1の質問です。

この質問には、私の個人的見解を答えさせてもらいました。
私は、女性の社会進出は産業界の労働力確保あるいは低賃金政策の一環であって、むしろ実態は「女性の社会からの隔離」だと考えて、当時(会社時代)から反対していた。
つまり、女性の社会進出と少子化対策は、いずれも産業振興策でしかなく、そこには「社会の視点」などはない。

参加している同世代の人にはたぶん異論があったでしょうが、それ以上は進みませんでした。
しかし、少子化担当大臣は所詮は経済産業省のお先棒かつぎでしかなく、男女共同参画などと言っている女性たちはもう少し勉強しろといいたいです。
彼女たちが社会を駄目にしてきているのですから。

第2の質問は、もっと厳しいものでした。
若い世代が子どもを産みにくいような社会をつくったのは、佐藤さんたちの世代でしょう。「家庭が大切だ」「地域社会の人のつながりが大切だ」などという前に、自分たちの責任をどう考えているのですか。

これには答が詰まりました。
せいぜい次のように話すのが精一杯でした。

私たち世代も自分たちのためにそうしてきたのではなく、子どもや孫の世代にためにがんばってきた。たしかに今となっては間違っていたことも見えてきたが、当時はみんな先が見えなかった。だからそれを反省して、自らの生き方を変えつつある人たちが出始めていることも知ってほしい。
だれが悪いということではなく、何が悪かったかを話し合って、世代を超えてみんなでもっと住み良い社会にしていくために、汗と知恵を出し合いたい。

その人は不満ながらも少しは納得して、世代間の争いにしてはいけないですね、と言ってくれました。
彼女とはこういう話をしたことはなかったのですが、若い世代がどう考えているのかを少しだけ理解できたような気がします。

私は毎月いくつかのサロンをやっていますが、もっともっと世代間の話しあいの場があるといいです。
みんなそういう場が必要だというのですが、言うだけではいけません。
いくらでもそういう場はつくれます。
どんどんつくっていきましょう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

■節子への挽歌914:節子らしい供花

3月になったのに寒い日が続きます。
昨日はジュンの報告をしに、むすめたちと墓参りに行きました。
節子の好きなバラとフリージアを供えました。
バラの明るいピンクとフリージアの浅黄色で、まわりが一気に華やかになりました。
フリージアのフルーティな香りも、きっと節子に届いているでしょう。

節子のお墓に供える花は、洋花が多いのです。
節子が好きだったからです。
わが家に咲いている花をもっていくこともありますが、この季節は庭の花も多くはないので、花屋さんに頼むのですが、仏花というと菊が中心のさびしいものになりがちなので、供花などとはいわずに、いつも明るい花を選んでもらいます。
節子はバラが好きだったので、バラを選ぶことも多いのですが、昨日はそのバラが安くて、どっさり供えられました。

墓参りに行っていつも思うのは、墓地の雰囲気です。
最近できた墓地は、墓地公園というくらいに明るいものもありますが、墓石が並ぶ風景は気分を厳粛にすることはあっても、心を癒すことはありません。
子どものころは、むしろ墓地には恐怖感や嫌悪感さえありました。
節子が墓に入ってからは、私にはその感覚は全くなくなりましたが、それでも冷たさやさびしさ、哀しさは感じます。
墓地や墓石には、おそらく死や死者に対する生者のイメージが象徴されているのでしょう。
いや、もしかしたら、逆かもしれませんが、

もう15年以上前ですが、仕事でチューリッヒに行った時に、ガイドの人が郊外の墓地を案内してくれました。
一つひとつのお墓が、まさに死者の住んでいる家のようで、強烈な印象を受けました。
それぞれが実に個性的で、現世の生活ぶりをそのまま続けているような雰囲気があり、墓地全体が死者の集落であるような感じさえありました。
それに比べたら日本の墓地は静かです。
日本の墓石も個性が全くないわけではありませんが、そう大きなデザイン性があるわけではありません。
死者はみんな同じように扱われるのかもしれません。

節子が彼岸でも節子らしく過ごせるように、せめて供花だけは節子らしいものをあげたいと思います。
節子、満足していますか。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010/03/03

■自己と非自己

いまある組織のリノベーションに関わっていますが、そこではトップに権限と責任が集中しすぎてしまったために、時代の変化に柔軟に対応できないまま業績がダウンしてきてしまっていました。
関係者みんな善意の人なのですが、その善意さがマイナスのスパイラルになっているように思います。
こういう組織は決して少なくありません。

免疫のことを前回書きましたが、免疫とは要するに自己に「非自己」を取り込むことといっていいでしょう。
これは多神教の世界の文化です。
一神教の世界観からは出てきません。
一神教の世界で育ってきた近代の組織は基本的にピラミッド型です。
一元的なリーダーシップと強い規範が組織を管理していくスタイルです。
その組織原理が、いま見直され出しています。

会社時代に私が考えていたことは、異質性をどれだけ包摂しているかが組織の強さを決めていくという考えでした。
そこでは「したたかさ」と「しなやかさ」がポイントになりますが、会社時代にそのことをしっかりと共有できていた人は残念ながら一人しかいませんでした。
異質性の排除が組織管理であり、それこそが「強い組織」を作ることだと思っている人が、当時も少なくなかったのです。
おそらく「強い機械」はそうでしょうが、人間が生みだす組織は、異質性が多いほどたぶん豊かで強くなっていくはずです。
そしてなによりも、持続可能性が高いでしょう。
ただ残念ながら、そうした多様な異質性を束ね、シナジーをあげていくのが難しいために、実際にはそう簡単にはいきません。
20年近く前に書いた「脱構築する企業経営」という小論では、その一つのスタイルとして「マネジメントフリー」を提唱しましたが、あまりに中途半端な議論だった故にあんまり評判は良くありませんでした。

冒頭の善意の人たちの組織ですが、見えてきたのは、「善意」は「悪意」と同じことだということです。
にもかかわらず、善意はなんとなく「いいもの」と肯定的に受け止められます。
そこに大きな落とし穴がありそうです。
「善悪」という評価規準を捨てる必要がありそうです。
善悪を決めた段階で、すでに自らの生き方は決まってしまいます。

免疫を考える場合の自己と非自己を分ける最初の時点が大切なのです。
そこででてくるのが、たぶんオートポイエーシスの発想です。
その議論では、自己も非自己もなく、ない外の境界は消滅します。
まさにクラインのつぼの世界なのです。
事実、起業時点の企業やNPOには、自己も非自己もないでしょう。
そこまで考えると、組織とは一体なんなのだろうかと、問題はますます深まってしまいます。
今日もまた書こうと思っていたこととはまったく別の方向に話が広がってしまいました。
いくつかのキーワードを出させてもらいましたが、少しずつ話を展開させていこうと思います。
時評とはちょっと言えなくなってきてしまいましたが。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

■節子への挽歌913:お母さんは元気ですか

節子
節子のことを覚えている人は多いですね。
それが嬉しくもあり哀しくもあります。

ユカが小学校の同窓会で久しぶりにMくんに会ったそうです。
Mくんは同じクラスの中では一番近くにすんでいた関係で、ユカが休んだ時に先生からの預かり物をわが家まで持ってきてくれる係だったのだそうです。
久しぶりに会ったMくんから、こう言われたそうです。
「プリントなどをもっていくと、いつも、ユカのお母さんが果物などをくれたのを覚えているよ、お母さんは元気か」

先日、昔住んでいたところの近くの人が、ある用事で手紙を送ってきてくれました。
そこにも節子のことがメモで言及されていました。
「ところで、お母さんは元気ですか」

節子
いろんな人が節子のことを覚えてくれています。
みんなの心の中では、いまもきっと節子は元気なのでしょう。
それが嬉しくて哀しいわけです。

ところで、節子
今は彼岸で元気にしていますか。
私は此岸で、元気にしています。
元気をなくして、早くそちらに行きたいのですが、人生はそう簡単ではないようです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010/03/02

■節子への挽歌912:愛する人を失うと、人は哲学者になるもの

節子
先週初めは暖かだったのですが、また寒くなりました。
こうした天候の変化があると、それと節子の気持ちを重ね合わせてしまうようになっています。
一昨日、ジュンの結婚パーティに出かける時には、なんと雪がちらついていました。
きっと節子が降らせているのだなと思いました。
しかし、それにつづく2日間の寒々とした天候は、何を意味しているのでしょうか。
これはなかなか難しい問題です。
愛する人を失うと、人は哲学者になるものです。

節子が最後にわが家から出ていく時、それまで雨のそぶりさえなかったのに、まさに自動車が出発するのに合わせるように雨が降りました。
あれは、節子の涙であり、節子が存在し続けていることをみんなに伝えてくれたのだと思います。
そのことは挽歌106でも書きましたが、私にはとても不思議な体験でした。
あれ以来、私は節子の霊魂を確かなものとして信ずるようになりました。
天候のむこうに、いつも節子を感じます。
愛する人を失うと、人はエコロジストにもなるものです。

それにしても今日は寒いです。
節子、もう少し暖かくしてくれませんか。
こんなに寒いと、明日の月命日にもお墓参りに行くのをやめますよ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010/03/01

■節子への挽歌911:黙とう

節子
今日は節子への挽歌を書くのを忘れてしまっていました。
まあ、時にはこういうこともあるのですが、いざ書こうと思ってパソコンを開いたのですが、書くことが頭に浮かびません。
さっきから写真の笑顔を見ているのですが、頭に何も浮かんでこないのです。
こんなことはめったにないのですが。

と、思って気が付いたのですが、今回は「911回」です。
911。つまり、9.11.
世界が変わった日と同じ数字です。

もしかしたら、節子は彼岸で追悼しているのかもしれません。
私も節子と一緒に追悼することにします。
では黙とう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

■免疫力の高さ

ホームページの週間記録に書いたのですが、先週、歯医者さんから
「佐藤さんは免疫力が強いので、虫歯の治療後の処置をきちんとしていなくても炎症が起きにくいんです」
というようなことを言われました。
かなりの深い治療をしたときにも、佐藤さんのことだから痛みは出ないでしょうが念のために、といって痛み止めをもらいましたが、案の定、痛みは出ませんでした。

先週、読んだエスポジトの「近代政治の脱構築」のキーワードは「免疫」です。
実は、この本に感激した一つの理由は、それが理由です。

私が人生を変えてしまった契機は、会社勤務時代に企業文化変革活動を社長に提案して、思う存分やらせてもらい、その結果、主観的に挫折したという体験です。
その時のキーワードが2つあります。
「錬金術」と「自己・非自己」です。
「自己・非自己」とはまさに「免疫」の話ですが、当時はまだ私の中では「免疫」という言葉にはつながっていませんでした。
いまから思えば、「脱免疫化」が私の関心事だったのです。
当時は「開かれた企業」という表現を使っていましたが。

エスポジトは近代社会の袋小路を解く鍵として「免疫」という概念を持ってきます。
そして「共同体」に対して、その言葉を対置します。
最初はピンときませんでしたが、読み直してみて、私が25年前に取り組みたかったことだと気づきました。

免疫とは、インフルエンザ騒動で問題になったワクチンのように、病気の原因となる細菌や毒素を弱体化させて人体に投与することで、病気への対抗力を高めることです。
医療の世界ではこのことはもう常識ですが、社会のあり方や私たちの生き方においても、それは大きなヒントを与えてくれるはずです。

「コミュニティとは重荷を背負い合う人のつながり」というのが、私の定義ですが、ここでいう「重荷」とはコミュニティの語源に含まれる「ムニス」と同義です。
そしてコミュニティとは、そのムヌスを「コム」、つまり「共にする」ということです。
免疫の語源は「イムニタス」、ムヌスを「イン」、つまり否定するものです。

コミュニティやコミュニケーション、あるいは企業組織に関心のある人であれば、たぶん新しい地平が見えてくるのではないかと思います。
「免疫」という視点でみると未来が見えてくるような気がしてなりません。

私のもうひとつの関心事だった「錬金術」ですが、これは私の思いとは全く別の形で、この20年に世界を振り回したような気がします。
この視点から世界を見ると、これもまたとても面白いです。

久しぶりに、免疫と錬金術のことを思い出しました。
しばらくこれをまた意識しながら、この時評を書こうと思います。
現下の政治も経済も時評するのさえかったるく空しいように思いますので、しばらくはやや長期の時評に逃避したい気分ですので。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2010年2月 | トップページ | 2010年4月 »