■自評5:SNSの意味がわかりません
さてさてネットと言えば、最近の流行りはSNSです。
これについても言及しなければいけません。
私も4つのSNSに何となく参加しています。
別に意図的に参加したのではなく、友人が誘うので断る理由もないので参加したのですが、これがまた思わぬ出会いの魅力を持つと同時に、人間のダイナミズムを閉じ込める魔力ももっているような気がします。
友だちの友だちはつながっているという、スモールワールド理論というのがありますが、まさにその通りに、友だちの友だちの中に友だちを見つけることもあります。
またこれまで久しく付き合いのなかった高校時代や大学時代の同級生に出会うことができるかもしれません。
しかし、若いときであればともかく、この歳になると世界を広げることのわずらわしさも感じます。
それに再会や出会いは、ある意味を持っている必然的なものと考えている私にとっては、探してまで出会うことへの抵抗もあります。
実際に昨年、友人と話していて、その人が昔の私の友人と最近付き合いがあることを知ったので、連絡先を教えてもらったのですが、やはり連絡を取るまでには至りませんでした。
一方の魔力ですが、それはどんどんとネットの世界に引きずり込まれてしまう引力です。
ネットの世界は実に深く広いです。
そこに入り込んだら、それこそ底がなく、無限の広がりを感じます。
そしてそこでのつながりややりとりを通じて、ある意味の完結性が生まれてきます。
映画「マトリックス」の世界に入ってしまうようで、そこに安住したくなりかねません。
まさにアバターを生みだす創造主のような気分にもなれますし、過去を創りだすことさえできるでしょう。
わずらわしいリアルな世界からおさらばできるのですから、なんとも大きな魅力です。
30年ほど前に「ネットワーキング」の概念が日本に導入された時に、私も大きな関心を持ちました。
研究会にも参加しましたし、社会実験の資金集めにも協力しました。
ですから、SNSが話題になり出した頃にも期待がありました。
しかしその後のSNSの展開には大きな違和感がありました。
閉じられたネットワークではなく、開かれたリゾーミックな構造は私にも共感できるのですが、その中で行き交うものがあまりに記号的で目的的なのがどうも好きになれません。
それにどこかに拡大思想やマス発想も感じます。
もっともこれは私にSNSを活かすほどの主体性やリテラシーがないからかもしれません。
うまく使えるようになれば、私の評価も変わるでしょう。
もしかしたら、SNSは「死の概念」を変えるかもしれないとも思っているのです。
まあそれこそが私が一番危惧することでもありますが、心のどこかでそれを望んでいるような気もしています。
SNSに関しては、まだ距離を持って付き合っているのが正直なところです。
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