■節子への挽歌922:葬儀への不義理
節子
訃報が届きました。
最後に会ったのは10年ほど前でしょうか。
かなり歳の離れた従兄弟の伴侶です。
今年になってから2人目の縁戚の訃報です。
不謹慎な言い方ですが、私は結婚式よりも葬儀のほうが好きでした。
なぜか安堵できるのです。
それに比べ、結婚式の、あの華やいだ雰囲気が、昔からどうも馴染めないのです。
根が暗いのかもしれません。
葬儀はなぜ落ち着くかというと、そこに真実や生命を感ずるからです。
見送る人に、みんな心を向けている雰囲気は、心が落ち着きます。
やはり、根が暗いですね。いやはや。
それに、葬儀では、久しぶりに会う人がいて、その人とゆっくり心を通わせ合えるのも心が和みます。
結婚式だと、なかなかそうはいきません。
それに結婚式での食事が私には苦手です。
それはともかく、葬儀で読経のなかでのその人との別れは、いろいろなことを考えるきっかけをもらえます。
ところが、節子を見送ってからは、葬儀に行くのがとても気が重くなりました。
なぜでしょうか。
あの日を思い出すからでしょうか。
節子の通夜、あの日は実に不思議な日でした。
私は、それまでとはまったく違った世界にいました。
もう2度と再現できないでしょう。
会堂の薄暗い広い部屋に、永遠の眠りに着いた節子と2人きりでした。
そこで節子は、私の心の奥底に話してきました。
そのおかげで、翌日の告別式で話ができたのです。
それにしても、あの時は、いま思い出しても、自分がこの世にいるとは思えないような不思議な時間でした。
そのことを思い出してしまいそうなのです。
身震いがします。
なぜか大原の勝林院の異形の仏を思い出します。
そんなわけで、不義理なのですが、葬儀にはまだ行けずにいます。
今回も、先約があったのを幸いに不義理をさせてもらうことにしました。
節子は怒っているかもしれません。
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