■節子への挽歌940:特別の存在
哲学者の鷲田清一さんは、周辺に誰もいないからさびしいのではなく、自分が他者にとって意味があると感じられない時、生きる気力を失う、というようなことを書いています。
私たちは、自らが誰かにとって特別な存在であると感じられる時に、生きがいを感ずるとも書いています。
とてもよくわかります。
自分にとって「特別の存在」の人は誰にもたぶんいるでしょう。
しかし自分が誰かにとって「特別の存在」であると確信を持てる人は多くはないかもしれません。
「特別」であるかどうかの評価は、前者の場合は自分でできますが、後者の場合は自分ではできないからです。
「特別の存在」は、しかし、個人に属する特質ではありません。
関係性の中から生まれるものです。
それぞれが、余人をもっては代えがたい存在となるような関係性を創り出すのが「特別の存在」という意味です。
ですからそれは対称性を持っており、相互に「特別な存在」なのです。
節子は、私にとっての「生きる意味」でしたが、言い換えれば、私たちはそれぞれに「特別の存在」でした。
私の存在は、節子にとって「意味」があることを私は日常的に実感できていました。
だから私は、いつも「生きる気力」に満ち満ちていて、元気でした。
その「気力」は、私の心を常に平安に保ってくれていました。
それが消えてしまったのです。
鷲田さんの言葉を借りれば、節子がいなくなったからさびしいのではなく、自分が「特別の存在」であることを確信させてくれる節子の不在が私は不安にさせているのかもしれません。
最近、えもいわれない不安を感ずることがあるのです。
「周辺に誰もいないからさびしいのではなく、自分が他者にとって意味があると感じられない時、生きる気力を失う」。
この言葉は、深く心に響きます。
| 固定リンク
「妻への挽歌05」カテゴリの記事
- ■第1回リンカーンクラブ研究会報告(2021.09.06)
- ■節子への挽歌1000:パッセンジャーズ(2010.05.29)
- ■節子への挽歌999:新緑(2010.05.29)
- ■節子への挽歌998:花の季節(2010.05.27)
- ■節子への挽歌997:「解けない問題」(2010.05.26)
コメント