■節子への挽歌916:節子がいたらなあ
最近、自然と口から出てくる言葉があります。
「節子がいたらなあ」です。
なにしろ以前は何かあればすべて節子に言っておけばどうにかなったので(実際にはそうでない場合も少なくなかったのですが、気分的には節子に話すととりあえずはそのことを忘れることができました)、そうできないために、いろんなことがどんどんたまっていく感じです。
娘たちがよくしてくれるので、生活の不便は全くないのですが、やはり長年連れ添った節子とは対応の仕方が違います。
時には、そこまではやれないよ、などと言われてしまいます。
もちろん私の方にも少しは「遠慮」がありますから、ついつい、「節子がいたらなあ」と口に出てしまうわけです。
以心伝心という言葉がありますが、私たちはまさに以心伝心でした。
いや、おかしな言い方ですが、本人が思っている以上のことが相手に伝わり、思っている以上のことをお互いにしあっていたような気がします。
しかし、それも特に相手を気遣っての結果ではなく、自然とそうなるのです。
まさにこれこそが「ホスピタリティ」の真髄かもしれません。
気遣うことと気遣われることは同じものなのです。
そうした伴侶の存在があればこそ、私はなにひとつ心配することなく、気楽な人生を送れていたのです。
節子がいなくなって、初めてそうしたことがわかってきました。
最近、私の周りでも実にさまざまな問題が発生します。
どう対処していいか、悩むことも少なくありません。
節子がいたら、一緒になって、何かをすることができることも少なくありません。
でも私一人だとなかなか難しい。
節子がいなくなったのに、私はまだ節子に依存しているのかもしれません。
まだ「節子がいたらなあ」などと未練がましく口に出しているのですから。
節子一人では頼りにはならない存在でしたが、夫婦になると節子は、本当に頼りになる伴侶でした。
おそらく私もそうだったのかもしれません。
しかし、一人になってしまうと自立さえしていけなくなるのですから、困ったものです。
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