■人は常に欠如と悪のかたまり
人に関して、過去の哲学者はさまざまなことを言っています。
カントはこういいます。
「自然の歴史は、善をもってはじまる、なぜならこの歴史は神の業だからである。自由の歴史は、悪をもってはじまる、なぜならこの歴史は人間の業だからである」
これはかなり奥深い意味を持っています。
なぜなら、善悪を考えるのは、人間だからです。
自然にとっては「善悪」はありません。
と言うことは、人間は「自己否定的な存在」だということになります。
ハイデガーは、共同体は、つねに欠如をともなって生じ、それ自体が欠如の共同体だといっているそうです。
共同体を人間と置き換えるともっとわかりやすいです。
人は常に欠如を持った存在なので、一人では生きられないということになります。
これも実に深い意味を持っています。
サブシステンスという言葉があります。
辞書を見ると「生存」「生計」などと味気のない訳語が並んでいます。
これもなかなかわかりにくい言葉ですが、欠如に関連しています。
急にこんなことを書いてしまいましたが、最近、人の本質は「欠如」ではないか、そしてその欠如を補うための行為を「悪」というのではないかという気がしてきたのです。
同時に、それらはまた、ダイナミズムの源泉であり、経済もまたその上に乗っかっているわけです。
そう考えると、政治も経済もなんとなく理解しやすいです。
そろそろ自評はやめて、また時評に戻りたいと思います。
退屈な自評にお付き合いいただきありがとうございました。
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