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2010/03/09

■節子への挽歌919:つかの間の自由

昨日の時評編で、「私たちの生は自分でコントロールしているようですが、実際にはそうではないように思います」と書きました。
今日の挽歌は、そのつづきです。

大きな生命現象の中で、わずかばかりの自由を楽しんでいるのが人生かもしれません。
その「わずかさ」は、考えようによっては「無限」なほどに大きいのですが、私たちが思っているほどの自由さはないようです。
それが証拠に、ある時、突然に不条理な生の剥奪があるからです。
わずかばかりの自由を、慎ましやかに過ごしていた節子から、それを奪うことはないと思いますが、それが定めなのでしょう。
代われるものなら代わりたいと思う事例は少なくありません。
しかし、こればかりは代わることができない。
人智のおよぶところではないのです。

私と節子との出会いがそうであるように、私と節子との別れもまた、定まっていたのでしょう。
それを知らなかったのは、私だけかもしれません。
もしかしたら節子はある時にそれを悟ったのかもしれません。

節子は手術後の半年間はよく泣きました。
しかし、ある時に自分で紙に3つの言葉を書き出しました。
感謝、勇気、大きな声。
節子にとっての最初の課題は「大きな声」でした。
その3文字が、実際に節子のものになるまでには、1か月以上はかかったでしょう。
しかし、次第に節子は変わりました。

いまから思えば、あのころ、節子は私との別れを知っていたのかもしれません。
私も、意識下の世界で知っていたのかもしれませんが、そんな不条理は、まだ現世だけで生きていた私には見えるはずもありません。

それから私たちは、つかの間のささやかな自由を生きました。
節子とはよくバス旅行に出かけました。
ハイキングにも行きましたが、節子は私の勝手なハードな行動にも付き合ってくれました。
しかし、その自由な2年間も、私にはたくさんの悔いが残ります。
もしそれが「つかの間の自由」だったのであれば、もっともっとやることがありました。
やり残したことの多さは、リストに書き出したら際限なく続くでしょう。
そうした「悔い」が、もしかしたら、いまなお私が節子に未練を感じ、愛を忘れられない理由かもしれません。
だとしたら、すべては仕組まれていたのかもしれません。

私がこれからどう生きるのか。
知っているのは、節子と神(天)だけなのかもしれません。
つかの間でしかない、わずかばかりの自由を、大切にして生きていきたいものです。
しかし、ほとんどの人は、もちろん今の私も含めてですが、自由が突然に終わることなど受け入れられずに生きているような気がします。
節子は、やはり尊敬に値する、そう思っています。

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