■節子への挽歌938:人は本来支え合う本性を持っている
節子
一昨日のサロンで、人は本来支え合う本性を持っていると発言させてもらいました。
素直に生きていれば、それは当然のことのように私には思えます。
そういえば、そのサロンにも参加してくれたブログの読者が、ゾーエとビオスのことが最近、ようやくわかってきました、と言ってくれました。
着飾った頭や心を解き放てば、「生命の支え合う本性」が現れてきます。
私はそうした考えに、どちらかといえば「理屈」からたどりつきました。
節子に言わせれば、私は実践者ではなく理屈屋なのです。
こんなにたくさんの本を読まなければ、そんな簡単なこともわからないの、と節子には笑われますが、いろんな本を読んでその考えにたどりついたような気がします。
念のために言えば、自分の生き方の意味がわかってきたということで、本を読んだから生き方が変わったということではありません。
私の生き方は、学生の頃からたぶんほとんど変わっていません。
節子は本を読まない人でしたから、逆に生来のそうした生き方を失っていませんでした。
私たちは、本をたくさん読んだのとまったく読まなかったのとの違いはありますが、「人は本来支え合う本性を持っている」という確信は共有していました。
支え合う本性は、同時に普遍的な生命の痛みを感ずる身体性と深くつながっています。他者の喜怒哀楽は自然と伝わってくるものです。
その感度が強ければ、おのずと人の身体は、そして心は動きます。
私たちは、喜怒哀楽も心身の痛みも、深く共有していました。
しかし、それは決して2人だけの関係に内向するのでも呪縛されるのでもなく、むしろ外に向かって感度は広がっていたような気がします。
最近、その感度が私から消えてきているような気がします。
節子を見送った後は、その感度が極度に高まり、何を見ても涙が出ました。
しかし、最近、あまり涙が出なくなりました。
涙だけではなく、喜怒哀楽の感度が弱まっている気がします。
それに気づいたのはつい最近です。
どうも私の身体性は鈍くなっているのです。
喜怒哀楽が、奇妙に内部にとどまっているような気がします。
これは愛する人を失った喪失感の後遺症かもしれません。
最近、身体の動きが悪いのは、きっとそのせいです。
この週末、寒さのせいもありますが、あまり動けずにいました。
身体がとても重くて、そこから気が飛び出せずにいるような気分です。
支え合いの本性に影響しなければいいのですが。
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