■ゾーエとサブシステンス
今日もまた無意味の独白です。
このブログは、ゾーエとビオスという人間のニ面性を意識して、思い切り主観的なものとかなり社会的なものとをつなげながら書いているのですが、それと絡み合うような意味で、システムとサブシステンスを意識して書くようにしています。
昨日、湯島に2組の人たちがやってきました。
いずれも企業関係の人なのですが、午後は大企業、午前中は零細企業の人たちでした。
そこで交わされた話題は、全く対象的です。
前者では「どうしたら経営改善できるか」、後者では「どうしたら存続できるか」です・
しかし、もしかしたら、その問題設定は逆なのではないかと思います。
事実、議論のはしばしや、議論が終わった後の雑談では、それを感じさせる話が出ました。
ポランニーは、経済をシステムの論理に基づく形式経済とサブシステンスに基づく実体経済に分けました。
大企業は言うまでもなく前者の主役ですが、中小企業や零細企業が生きている世界は、まさに「生きている世界」という表現がふさわしいように、サブシステンスの世界です。
いま世界は、形式経済の破綻が実体経済を見直す動きを起こしていますが、そこをつないでいるのがサブシステンスに足を置いた中小企業なのかもしれません。
この数十年で、ベクトルは反転しているのです。
最近、社会的企業とか事業型NPOが話題ですが、それらももしかしたらシステム思考に向いているような気もします。
これまでの形式経済の慣性が働いているようです。
しかし、サブシステンスをベースにして発想していかない限り、流れは変わりません。
行政の世界でいえば、地域分権はシステムの世界ですが、地域主権はサブシステンスの世界です。
少しずつ認識は変わっていますが、あいかわらずの形式論理がまだ主流です。
私は、システムの世界ともサブシステンスの世界とも、それなりに関わらせてもらっていますが、双方と付きあって感ずるのは、その両者を担う人たちの意識の中に上下構造発想があることです。
格差社会の進行は、その一つの現われかもしれません。
それがあるから、みんながなかなか「越境」しないのです。
パラダイムを変えれば世界の姿は一変し、ベクトルの反転が起こるはずなのですが。
今日は熊本で福祉施設の経営に取り組んでいる人や零細企業の経営者でありながらシステムの論理破綻に関心を持っている人、コミュニケーションの専門家の大学教授が湯島に話に来る予定です。
みんなサブシステンスの世界を実感している人たちです。
さてどんな話が出るのでしょうか。
それぞれのゾーエとサブシステンスと触れ合えるかどうかが、人に会う醍醐味です。
それによって自分の世界が変わっていくのがよくわかります。
今日はもうひとり、私とは全く異質の世界にいるサブシステンスの人とも会えるかもしれません。
| 固定リンク
「無駄話」カテゴリの記事
- ■養生宣言(2024.06.17)
- ■シャーロックにはなれそうもありません(2024.04.05)
- ■今年読んだ本のベスト10(2023.12.31)
- ■『刑事モース〜オックスフォード事件簿〜』がついに終わりまし■(2023.08.27)
- ■新羅と秦族と六郷満山文化(2023.07.26)
コメント