■節子への挽歌926:不幸も幸福もない不幸
節子がいなくなって、何が変わったのでしょうか。
最近、そう思うことが時々あります。
この数日、挽歌を書きながら、その答がやっとわかった気がします。
「不幸も幸福もなくなってしまったこと」
それがたぶん答です。
人生がとても平板になってしまったと言ってもいいでしょう。
人生の喜怒哀楽は、それを共にする人がいればこそ、意味を持ってきます。
人間の感情は、個人の中に起きるのではなく、他者との関係の中で起きるようです。
そして、その感情はだれかと分かち合うことで意味を与えられ、増幅されるのです。
節子がいなくなってから、そのことに気づきました。
感情を評価する基準がなくなってしまうと、喜怒哀楽さえもが生命を失います。
すべての感情が宙に浮いてしまい定まらないのです。
不幸と幸福のコインの裏表さえわからなくなるのです。
そればかりではありません。
幸福が不幸に、不幸が幸福に、いとも簡単に裏返ります。
かつてであれば幸福だった場面も、節子に体験させてやれないという思いが浮かんだ途端に気持ちは奈落へと落ち込みますし、不幸な場面も節子を悲しませないですんだと思えば、心が安らぐのです。
したがってすべては中和され、幸せもなければ不幸もない、単調な人生になりがちです。
それが、「不幸も幸福もなくなってしまった」ということなのですが、それがいかに「深い不幸」か。
さらにもう一つの不幸が重なります。
「禍福(かふく)は糾(あざな)える縄(なわ)の如し」と言われますが、禍福がなくなってしまうことで、暮らしをつなぐ縄がなくなってしまうのです。
時間軸というか、時間期待というか、そういうものが消え去ってしまうのです。
その退屈さは、いささかやりきれないほどです。
こんな「不幸」はたぶん誰にもわかってもらえないでしょう。
わかってもらえる人がいたら、とてもうれしいのですが。
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コメント
あれから「幸福も不幸もなくなってしまった」という一文を読んで、まだ最後まで読まずに私もそうだなあ・・・これって、「禍福は糾える縄の如し」なんていうけれど編みこんでいく柄もないってことなのよねえとしばし考えていました。。
そして、読み進んでいくと同じような思いが書いてあったので驚きました。ほんとに・・・つないでいく縄がないことは、生活に彩りがなくなるのですね。
時間が経ってきましたので周りは私は立ち直ってきたように思っているようですが、実は心の中はあの日から止まってしまっています。感情はありますが、わきたつような感動は減ってしまいました。
投稿: masa | 2010/03/16 18:00
masaさん
いつもありがとうございます。
一人でもわかってくれる人がいて、とてもうれしいです。
最近はなぜか「自信」が消え去り、「不安」にさいなまれることが多いので、わかってもらえると安堵します。
投稿: 佐藤修 | 2010/03/18 17:55