■節子への挽歌962:節子の味
節子
最近、筍(たけのこ)三昧です。
今年最初の筍は、福岡の蔵田さんが送ってくれてのですが、私が筍好きなのを知って、敦賀の義兄がどっさりと送ってきてくれたのです。
あまりに多かったので少しおすそ分けしたのですが、またどっさりと届きました。
ユカがはんばって、いろいろとチャレンジしてくれています。
筍の煮物はもちろんですが、筍の生刺身、湯がいた筍刺身、焼き筍、筍のお吸い物、竹のもの中華風野菜炒め、筍ご飯など、もう毎日が筍尽くしで、さすがの筍好きの私もいささか飽きてきました。
しかしユカががんばっているので、食べないわけにはいきません。
ユカの筍の味付けはまだ節子とは違います。
筍にかぎりませんが、節子から娘になって、味付けは微妙に変わりました。
それは仕方がないことですが、時に節子の味付けが懐かしくなります。
もっともユカからどんな味だったのかと訊かれても答えることはできないでしょう。
自分でももうわからなくなってきていますから。
デモや張「節子の味」というのが、記憶のどこかにあるのです。
こうしたことはいろいろとあります。
娘たちはとてもよくしてくれますが、やはり節子とは違いますから、ついつい「節子だったら」などと口に出してしまいます。
娘たちももう慣れていますので、聞き流してくれますが、最近、娘たちもまた「節子がいたら」というのです。
もっともそれは節子を褒めているということばかりではありません。
節子がいたら違った方向に行くというような意味で使われることもあるのです。
まあ良い意味でも悪い意味でも、節子はわが家の文化を先導していましたから。
それこそが「節子の味」だったのです。
しかし、わが家の全体の雰囲気はまだ「節子の文化」を保っています。
まあ節子がいた時よりも良くなったものも悪くなったものもありますが、節子がまだ家の隅々にまで残っています。
だからこそ、私はおかしくもならずに、生きているのかもしれません。
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