■節子への挽歌957:「納得できる人生」の犠牲
節子
昨日の時評編に書いたのですが、Nさんが定年で役所を辞めました。
その通知に書かれていた文章についつい感激してしまい、時評編に書いたのですが(「納得できる人生と常識的な人生」)、やはり挽歌編にも書きたくなりました。
昨夜、いろいろと考えているうちに私たちのことともかなり重なってきたからです。
Nさんはわが家にも来てくれたことがあるので、節子も会っていますし、節子と2人でその町に出かけた時にも、そこでもお会いしています。
最後に来てくれた時は、節子はあまり調子がよくなかった頃でしたが、とても長い自然薯を持ってきてくれましたね。
そのNさんが、昨日も書いたように「お蔭さまで納得できる形で公務員生活にピリオドを打つことができました」と書いてきてくれたのです。
節子が元気だったら、退職を祝って、一緒に食事でも誘いたい気分です。
お互いに共通の話題は山のようにありますから。
昨日も書きましたが、私もまた「納得できる人生」を選んで会社を辞めました。
その経緯は当時ある雑誌に頼まれて寄稿しましたが、おそらく私の気持ちを知っていたのは節子だけだったでしょう。
節子は理解するというよりも、私の思いに「共振」してくれました。
その後の私の生き方は、その節子との共振によって始まったのです。
しかし、もし私がそのまま会社に残っていたらどうだったか。
節子は苦労せずに、病気にもならなかったかもしれません。
高給取りのサラリーマンの奥さんとして、華やかな生活もできたかもしれません。
ちょっと贅沢なレストランで食事ができたかもしれません。
スーパーの安い洋服ではなくブランド品をたのしめたかもしれません。
私が辞めてしまったために、節子も娘たちも人生を変えてしまったかもしれないのです。
なにしろ収入が一時期、ゼロになったのですから。
私自身は「納得できる人生」を過ごすことができました。
誰からも指示されることなく、納得できない仕事は受けませんでしたし、仕事の進め方もいつも自分で決められましたから、これ以上の幸せはありませんでした。
しかし、節子や娘たちはどうだったか。
迷惑を受けたのかもしれません。
自分が納得できる人生を送ろうと思うと、周辺にはそれなりの迷惑をかけてしまうのは皮肉な話です。
だから人は妥協した「常識的な人生」を選びやすいのです。
それでも、常識的な人生を選ばなかった私に、節子は満足していたと思うのですが、
今となっては確かめようもありません。
Nさんの手紙を、節子と一緒に読みたかったと、つくづく思います。
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