■節子への挽歌959:置いていかれた人のさびしさ
久しぶりに墓参りに行きまた。
3月末のお彼岸以来、さぼっていました。
ところがお墓にいったら、きれいなチューリップなどの花が供えられていました。
最近、私がこなかったので、節子が自分で花を供えたということも考えられないわけではありませんが…、いや、やはり考えられませんね。
どなたが来てくれたのでしょうか。
わが家ではお墓には基本的にいわゆる「仏花」は供えません。
洋花が多いのですが、ともかく明るい花を中心に選んでいます。
お墓に供花してくれた人もそれを知っているようで、真っ赤なチューリップとやさしい小さな花が中心でした。
いずれにしろ、こうしてわざわざ節子のお墓参りに来てくれる人がいるとは、節子は幸せです。
先日、ばばさんの葬儀で、友人の方が「私たちが思い出している限り、ばばさんは生きている」と話していました。
そのことを思い出しました。
節子は私にとっては「特別の人」であり、忘れようもありません。
しかし、節子以外にも時々思い出す友人がいます。
この歳になると見送った友人は決して少なくありませんが、不思議と思い出す人は決まっています。
私の場合は3人の友人をよく思い出します。
格別に親しかったわけではありませんが、その3人とは今生で一緒にやることが残っていたような気がするのです。
3人とも、まだ若かったのです。
そして、みんな突然に逝ってしまいました。
お墓に来てくれた人も、もしかしたら節子と何かをもっと一緒にやりたかった人かもしれません。
そういう人を置いて、先に逝ってしまう人は、本当に罪つくりです。
今日はお墓で節子に少し文句を言ってきました。
節子には罪はないのですが、やはり罪つくりの話です。
置いていかれた人のさびしさを節子はわかっているでしょうか。
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