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2010/04/06

■節子への挽歌947:自分一人救われても意味がない

節子
強羅のホテルの合宿に参加しています。
企業の経営幹部の皆さんの研究活動のアドバイザー役なのです。
節子がいなくなってからも、この活動は続けています。
しかし箱根での合宿はやはり足が重いです。

今日は飲めない日本酒を飲んだので、いささか頭がくらくらしていますが、
こういう時でも挽歌は続けることにしています。
箱根のことを書こうと思ったら、挽歌へのコメントがまた来ていました。
時々、投稿してくれる「いろは」さんです。
実は、いろはさんは先日、湯島まで会いに来てくれたのです。

コメントは、「悲しみの共有」にです。
いろはさんのコメントもぜひお読みください。

そこに書かれていた、次の文章にまたハッと気づきました。

佐藤さんも少しでも救われて欲しいという私の願いが、ほんのちょっぴりだけ叶ったような安堵感がありました。
なにがハッとしたか。
私を心配してくれている人がいる、ということです。
いろはさんには感謝しなければいけません。
でも、私はたぶん救われるまでもなく、十分に救われているのです。
しかし、私が救われることでいろはさんは安堵できるとしたら、やはり私は救われなければいけないのです。

最近、時評編で書いていますが、意味ある生のためにはサブシステンスとしての「支え合い」「関わり合い」が不可欠なのです。
そのことを、節子はみずからの生を通して、私に教えてくれたのです。
以前読んだ「サブシステンス」関係の本を、最近読んだら、何かスーッと心に入ってきたのです。

自分一人救われても意味がないのです。
同じ痛みを抱えた人に、心安らぐ瞬間が訪れることまで、分かち合いたいのです。
いろはさんの、その言葉に共感します。
そのためにこそ、私もまた救われなければいけないのです。
「救われる」ということ。
その意味を私はまだしっかりと理解していないようです。

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