■節子への挽歌949:古代への関心がなくなってきました
節子
新聞に「倭の正体」という本の広告が載っていました。
以前なら、倭などという文字を見ただけですぐに書店に注文していましたが、その気にもなりません。
そこで気づいたのですが、この頃、古代に対する関心が薄れてきています。
それと同時に、本を買わなくなってきました。
なんとしたことか。
関心が薄れたのいは、古代史だけでしょうか。
どうもそれだけではありません。
新しい知識を得ることに興味を失っているような気もしてきました。
「新しい知識を身につけて、それがいったいなんの意味があるのか」
そんな風に思っている自分がどこかにいるのです。
なんでもかんでも節子につなげるのは間違っているかもしれませんが、こういう気分になったのは節子がいなくなったためではないかという気がします。
節子がいなくなったために人生の有限性を実感してしまったのです。
以前は自分の人生には終わりはなく、いつまでも前に進んでいくような気になっていましたが、私の半分の人生が終わったいま、残りの半分が終わることも実感できるようになったのです。
そうなると新しい知識を得ても、それは知識で終わってしまいかねません。
それでは学ぶ意味もない。
知識は何らかの意味で活用(古代史であれば、その場所に行ったり自分の論理を創りあげたり)できてこそ、学ぶ意味があります。
でもその時間はもうありそうもありません。
少なくとも今は読まないけれどとりあえず買っておこうという本の買い方はなくなりました。
私がいなくなったら、娘たちは残された本を処分するのが大変でしょうし。
節子は、私と違って古代史にはあまり興味がありませんでした。
ギリシアに行っても、エジプトに行っても、私と違って、遺跡は観光の対象でしかありませんでした。
遺跡よりもカナダやアメリカの雄大な自然景観を観光に行きたがっていましたが、私の好みで遺跡ばかり付き合わせられていたのです。
節子がいなくなった今、どうして古代への関心が薄れてきているのでしょうか。
いまならきっと地中海で歯なくて、カナダ旅行を優先させたでしょう。
これもまた節子が半分乗り移っているためでしょうか。
なにやら少し不思議な気持ちがします。
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