■節子への挽歌969:死への憧れ
昨日の大浦さんと同じように、この挽歌を読んでくださっている方からメールが来ました。
隠さずに申し上げますが、佐藤さんの挽歌を読んでいると心配になるのです。彼女は愛する人を自死で失いました。
それは、以前、彼の日記を読み始めた時に感じた心配ととてもよく似ているのです。
言葉の端々に感じる死への憧れ。
人の強さと人の弱さは対極の離れた場所にあるのではなく、背中合わせだと感じています。
他人ではどうすることもできないものかもしれませんが、佐藤さんの危うさは何故か気に掛かるのです。
文中に出てくる「彼の日記」とは、その愛する人の日記のことでしょう。
彼女には私が見えていないものが見えているのかもしれません。
しかし、私には「死への憧れ」はありません。
そもそも「憧れ」という概念がないのです。
Uさん,心配は無用です。
たしかに、節子に会えるのであれば、死にたいとも思います。
しかし、娘たちのことを考えるともう少しは生きていたいとも思います。
節子のための死、娘のための生。
つまり、私にとっては、もはや「生」も「死」も同値なのです。
その意味では、ある意味での「生」は終わっているのかもしれません。
躍動するような生きる喜びは、もはや無縁のものになりました。
ですから「憧れ」はないのです。
まあ、こんなことを書くと、Iさんは、ますます私の危うさを感ずるかもしれません。
弱さと強さは背中合わせどころか、同じものだと思っています。
それに倣って言えば、生も死も同じものかもしれません。
以前、胡蝶の夢のことを書きましたが、どちらが本当なのかと訊かれたら、いまの私もまた返答に窮します。
昨日の大浦さんの言葉は「死ぬことで、その人は永遠に生き続ける」でしたが、
人は永遠に生き続けるからこそ、その生の一部として、死があるのかもしれません。
と書いてきて、書けば書くほど、死への危うさをUさんに感じさせるような気がしてきました。
火のないところに煙は立たないというたとえもあります。
やはり危うさがあるのでしょうか。
少し生き方を見直してみましょう。はい。
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コメント
本当の強さは、"一人じゃない"ことなのでしょうか。
挽歌からは、お嬢さん達との関係があまり見えてきません。
でも実際は、私が感じているよりもずっとずっと強い絆が
存在しているのですね。
> 躍動するような生きる喜びは、もはや無縁のものになりました。
私も人生のクライマックスは過ぎたな、と感じていて
そう思うと残された時間が、とんでもなく長く思えますが
この落ち着き払った精神を受け入れて生きる意味があるのでしょうか。
投稿: いろは | 2010/04/30 20:42
いろはさん
ありがとうございます。
娘たちとは友達関係です。
それと彼女たちに支えられて、今の私があります。
しかし私のサイトやブログに勝手に書くのはできるだけやめています。
正確に書かないと怒られてしまいますので。
娘は「小修くん」とか「小節子さん」とか呼ばれています。
まあ私たち夫婦の悪いところしか継いでいないですが。
投稿: 佐藤修 | 2010/05/03 06:32