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2010/04/13

■節子への挽歌954:生を突然に打ち切られる

節子
相変わらず、人の死を伝える報道が毎日続いています。
ポーランドの大統領夫妻は飛行機事故で亡くなりました。
タイで取材していた日本のカメラマンがデモに巻き込まれて死亡しました。
なんで人は死ぬのでしょうか。

しかし、考えてみると、人の生は常に死と隣り合わせです。
なぜなら、死があればこそ生があるからです。
ポーランドの大統領夫妻は、まさか飛行機が墜落するとは思わなかったでしょうし、取材中の村本さんも銃撃のさなかにいたとしても、おそらく自らの死はあまり実感しなかったのではないかと思います。
死を実感した時には、もしかしたら死が不可避のものになってしまった時なのではないか、そんな気がします。
その現世における「一瞬」は、もしかしたら当事者には長い時間かもしれませんし、あるいは時間軸の流れを超えるものなのかもしれません。
時間軸を超えられるのならば、なぜ死を避けられないのか、それは避けられないがゆえに与えられたものだからです。

あまり思い出したくないので、叙述的には書く気にはなれませんが、そんな思いを節子を見送った後、何回ももちました。

私もこの次の瞬間に死に見舞われるかもしれませんが、おそらくその瞬間にいたるまで、そんなことなど微塵も考えないでしょう。
そんな気がしてなりません。

人は死ぬのではありません。
生を突然に打ち切られるのです。
彼岸に立てば、それはしかし、さまざまな事柄の一つでしかないのです。
打ち切られるのではなく、始まりかもしれません。
時間軸のない世界の事物の生成とはどんなものなのでしょうか。

ばばこういちさんの葬儀に行ってきました。
私にとっての葬儀の風景は、以前とは全く違ったものになってしまっていました。
永六輔さんたちが、また「お別れの会」を企画しているそうですが、私はお別れなどする気はないので参加はしないでしょう。
生者のためのお別れの会は、どうも好きになれません。

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