■節子への挽歌946:悲しみの共有
挽歌939にコメントをもらいました。
もう読んでくださった方もいるかもしれませんが、伴侶を亡くした悲しみは決して共有できないということに反応してくれたのです。
共感できないことを共有することで、私も少し救われます。
この方はこう書いています。
この悲しみは いつまで続くのでしょうか。そうなのです。
夫が逝ってから 265日たちますが 悲しみは益々深くなり 何をしても 終着点は 夫です。
それでも 狂いもせず 日常を 現実を生きている自分が不思議でなりません。
自分ながら、とても不思議な感覚です。
ある意味では「狂っている」のかもしれませんが、見た目はたぶん以前と変わらぬ生活でしょう。
早くそばに行きたい もう一度会いたいと思うばかりです。私も今でも毎朝、節子の写真にそう語りかけています。
でも、実際には、現実を今まで通りに(もちろん生の中身は違うのですが)生きています。
強い人間だと思っていた自分が ほんとはこんなに弱い人間で 夫がいたから強く生きて来れたんだと今にして知りました。「人」という文字は、ニ本の棒が支え合ってできています。
その意味の深さを知ってしまったことが、不幸なのか幸せなのか。
人の生はさまざまですが、私の場合は、一人で生きる人生ではなかったことは間違いありません。
と、こう書いてきて、もしかしたら、伴侶を亡くした悲しみは共有できるのかもしれないと、ふと思いました。
もしかしたら、そう思いたくない気持ちが私にも、この方にもあるのかもしれません。
そして、その思いがあればこそ、狂いもせずに生きていられるのかもしれません。
このコメントをもらってから、ずっと考えてきましたが、これが今現在の私の思いです。
山崎さん
もしかしたら、分かち合えるのかもしれません。
でも、それがなんだ、いう気持ちもありますが。
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コメント
この記事を何度も眺めていました。
私にとっては、旅立った愛する人が、"長年連れ添った伴侶"ではなかったので、そこに的を絞ると
ちょっと寂しい気分になったり、いやいや、"魂の片割れを亡くした者同士"、
誰とも共有などできない程の悲しみを抱えている点では同じではないか、と思うと救われたり。
> 共感できないことを共有することで、私も少し救われます。
結局、私の中でも共有できる「何か」を、この記事に見出そうとしていました。
「共有」というと、自分の感情と、すっかり一致しないと共有とはいえないイメージなのですが
「シェアリング」と表現すると、たちまち、気軽な印象になります。
心の一部分でもシェアできたら、すなわち、分かち合えたら、人は救われるのかもしれませんね。
少なくとも私は、ここでたくさん救われています。
そういう意味でも佐藤さんが
> 山崎さん
> もしかしたら、分かち合えるのかもしれません。
と、記事をしめくくって下さったことは、私の中でも、頑なな部分が緩んでホッとした部分でもあります。
と同時に、佐藤さんも少しでも救われて欲しいという私の願いが、ほんのちょっぴりだけ叶ったような安堵感がありました。
きっと、自分一人救われても意味がないのです。
同じ痛みを抱えた人に、心安らぐ瞬間が訪れることまで、分かち合いたいのです。
それは、私が特別にやさしい性質という訳ではなく、人の心に組み込まれた部分ではないのかと、
コムケアについて書かれた佐藤さんの文章が思い浮かびました。
> でも、それがなんだ、いう気持ちもありますが。
私にとっては、「なんだ」ということはありません。
とても意味の深い、大切な一行でした。
投稿: いろは | 2010/04/06 12:20