« ■お金が見えなくなりつつあります | トップページ | ■節子への挽歌956:共働き »

2010/04/15

■節子への挽歌955:私の言動の中にいる節子

節子
うっかりして、昨日、挽歌を書くのを忘れてしまいました。
昨日は、朝から湯島に相談客が多く、帰宅も遅かったので疲れきって、お風呂に入ってすぐ寝てしまいました。
昨日は4人の相談でした。
相談に答えるよりも、勝手なことを話しているだけのような気もしますが。
しかし、アクティブに応えるようにしていますので、それなりに疲れます。
むかし横で聞いていた節子は、内容が全く違うのに、よく頭を切り替えられると感心してくれましたが、昨日も、アート、経営、医療、農業と問題はさまざまでした。

挽歌を忘れたとはいえ、節子を忘れていたわけではありません。
誰と話していても、時々、節子が出てきます。
というか、私の発想の中にすでに節子がいるのです。
人生の三分の二を一緒に暮らしていると、考えることにおける自分と伴侶との境界はあいまいになります。
それは家事や家族のことだけではありません。
仕事や社会活動の面でも、言動は融合され、共進化してきているように思います。
人の脳は開かれており、他者とつながっていることを実感します。
節子と私の思考は共有化され、そのどれが私本来のもので、どれが節子本来のものかさえ、いまではわかりません。
節子はいなくなりましたが、その脳はまだ私の中にいます。

私の発想はかなり柔軟だと思いますが、それは複数の視点で発想できるからです。
言動が自然と共有化される伴侶を持てたことが、いまの私の生を支えていることは間違いありません。

昨日のように、かなり専門的な話題になっても、そうした複数の視点は生きてきます。
ですから私はいまも「共働き」生活なのです。
「共働き」というと誤解されそうですので、これは改めて書くようにします。

挽歌は毎日1回と決めており、その番号が節子を見送ってからの日数ですので、今日は挽歌を2回書くことします。
そうしないと番号と日数がずれてしまいますので。

|

« ■お金が見えなくなりつつあります | トップページ | ■節子への挽歌956:共働き »

妻への挽歌05」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: ■節子への挽歌955:私の言動の中にいる節子:

« ■お金が見えなくなりつつあります | トップページ | ■節子への挽歌956:共働き »