« ■節子への挽歌947:自分一人救われても意味がない | トップページ | ■節子への挽歌948:どこまでが私の脳なのか »

2010/04/07

■特別の存在という関係性と支え合いの文化

先日の挽歌940に、こんなことを書きました。

余人をもっては代えがたい存在となるような関係性を創り出すのが「特別の存在」という意味です。
ですからそれは対称性を持っており、相互に「特別な存在」なのです。
このブログを読んでくださった共済研究会の佐々木さんが、支えあい助け合う共済の本質が、この文章に現れていると教えてくれました、

佐々木さんは、「共済」の運動は、「相互に特別な存在」になる「関係性」を社会の中に築き上げてくことに尽きるように思う、というのです。
まったく気づかずに書きましたが、言われてみるととても納得できます。
最近、サブシステンスとしての支え合いについて考え出しているのですが、まさに私自身が、その真っ只中にいることに気づきました。
私にとってのサブシステンスは、まさにこのことなのです。
それがあればこそ、生きていられるのです。
これは、自らの生の危機を体験しないと得られないものかもしれません。

佐々木さんは、以前、四国の松山に行った時に、街を走っていた市電の車体側面に「あなたにとって他人でも、みんなだれかのだいじな人です」という標語が掲げられていて、感動した記憶があるとも書いてきました。
そうなのです。
みんな誰かにとって大切な人なのです。
でも、その関係が見えにくくなっている、あるいは断ち切られているというのが現代なのかもしれません。

佐々木さんは、つづけて、

特別な存在ではなくとも、支えあう存在としての自己、そして仲間という、気持ちを持てるような関係ができれば、どれだけ楽しいことか。心豊かなことか。
と書いてきてくれました。

そう思います。
私はそうした生き方を心がけていますが、
みんなこうした生き方をしたら生きやすいのにといつも思います。
そうした生き方をしていると、世間には悪い人などいないのです。
マスコミで報道される世界と、私は違う世界に生きているのかもしれないと、ついつい思ってしまうほどです。

日本の社会は、古来「支え合う社会」だったのではないかと思うのですが、今その「支え合う文化」(共済の文化)が壊されつつあります。
そうした動きに対して、佐々木さんはなんとかしなければと、共済研究会に取り組んでいるのです。
「支え合いの文化」を守るのは、私たち一人ひとりの生き方です。

|

« ■節子への挽歌947:自分一人救われても意味がない | トップページ | ■節子への挽歌948:どこまでが私の脳なのか »

社会時評」カテゴリの記事

生き方の話」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: ■特別の存在という関係性と支え合いの文化:

« ■節子への挽歌947:自分一人救われても意味がない | トップページ | ■節子への挽歌948:どこまでが私の脳なのか »