■国の「不作為責任」
時評をまたきちんと書こうと思ったらとたんに書きたいことがたくさん出てきました。
続けて今日2つ目の時評です。
アスベスト問題で、昨日、大阪地裁が画期的な判決を出しました。
アスベストの有害性が明白になり、規制が始まっていたにも関わらず、実際の場での規制を放置したことに対して、国の「不作為責任」を認めた判決です。
国の「不作為責任」を認めたことにとても共感できます。
犯罪は多くの場合、「作為」に目が行きますが、権力の座にある人(組織、事業主体)は、むしろ「不作為」こそが大きな被害をもたらすのです。
にもかかわらず「これまで「不作為」は見過ごされがちでした。
立場によって、「不作為」の意味はまったく違ってきます。
私が少々の不作為をしたところでたかがしれていますが、社会的な大きな影響力を持っている人が行う不作為は大きな問題を起こしかねません。
C型肝炎問題を考えればわかることです。
もっとも「不作為」と同じレベルでの「過剰作為」という問題もあります。
そこが悩ましい話ではあります。
「過失」はどうでしょうか。
最近は「重過失」発想が広がっていますが、私自身は「過失」と「故意」の量刑の差が大きすぎることに以前から違和感がありました。
そこを埋めるものとしての「未必の故意」論があるのですが、それらはいずれも同じように扱うほう論理はたぶん十分に成り立ちます。
そうなっていないところに、今の法体系が管理の道具であることの証があると私は思っていますが、その延長に「不作為への寛容」が成り立っているように思います。
その意味で、今回の判決にはとても共感できます。
ただ、被告への慰謝料や賠償に関する判決部分には違和感があります。
被告にとっては、これまでとまったく同じことなのかもしれません。
しかし、あとは政治の世界の話かもしれません。
被告たちにとって納得できる保障がなされることを祈ります。
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