■なぜ同じ地域に住む人に向けて銃口を向けられるのか
タイの反政府デモは政府によって制圧されました。
私自身はどちらかに加担できるほど情報も利害関係ももっていませんが、その制圧の様子をテレビで見ていて、なぜ人は人に向けて銃口を向けられるのかと不思議に思いました。
しかもみんな同じ国民です。
それぞれを動かしているトップの座にいる人たちが、「私欲」のために、あるいは「正義」のために、相手を倒そうとするのは理解できます。
もしそうなら一対一で決闘すればいいのですが、その文化がなくなったいま、動員されるのは権力とは無縁の生活者です。
制圧の前線に立った人と制圧の対象になった人とは、たぶん極めて近い存在でしょう。
にもかかわらず、戦わされるのは、常にそうした人たちです。
もしそうであれば、銃口は空に向けられるべきですが、映像ではまさに相手に向けられています。
そして死者が出るのです。
戦いで利益を得る人には、こうした仕組みでは銃口は向けられません。
利益を得る人たちは詰めに安全な場所にいるわけです。
イラクもアフガンも、チェチェンもそうです。
私の大学時代に安保闘争がありました。
デモ隊に向かってくる機動隊がまったく理解できませんでした。
お前たちのために我々は命を張って闘っているのがわからないのか。
そうした「思いあがりの気持ち」がまったくなかったとは言えませんが、人はいかようにも「改造」できることを実感しました。
そこで学んだことの一つは、論理的な関係と現実的な関係は、いつも逆転するということです。
その事例には、その後、歴史を学ぶたびに繰り返し出会いました。
ここでも「見ている風景」「生きている風景」が大きく影響しています。
タイの映像を見ながら、ふと思いました。
これはタイだけの話ではない。
日本の今の普天間問題もまったく同じなのではないのか。
武力こそ使わないものの、それ以上の「武器」が使われているのではないか。
そして人間が壊され、社会が壊されているのではないかと言う気がしてきました。
陰湿に隠された戦いよりも、タイのようにわかりやすい戦いのほうがダメッジが少ないのかもしれません。
もう一つ感じたのは、反政府側の戦略の不在です。
不謹慎ですが、なぜこんなやり方をとっているのかと思います。
たぶん政府対反政府と同じ構造が反政府組織にもあるのでしょう。
組織原理が同じ組織は常にフラクタルな関係です。
これもまた普天間問題にも当てはまることかもしれません。
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