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2010/05/01

■節子への挽歌972:ホモ・フューネラル

節子
佐久間さんの「葬式は必要!」という本に、こんな文章が出てきました。

葬儀とは、愛する者を失い、不安に揺れ動く遺族の心に「かたち」を与えて、動揺を押さえ、悲しみを癒すこと。
昨日、オープンサロンで葬儀の話が出ました。
最近は葬儀をしない人が増えたとある人が話したからです。
しかしよく訊いてみると葬儀のスタイルが多様化した、あるいはそれぞれの納得できるスタイルになってきたということのようです。
私の体験から言っても、葬儀があればこそ、おそらく今の私がいます。
いろいろと悔いることはありますが、あの葬儀があればこそ、私の心が鎮まったことは間違いありません。

佐久間さんは、人間とはホモ・フューネラル、即ち「葬式をするヒト」と書いています。
とても納得できます。
佐久間さんのホームページには、ホモ・フューネラルに関する、こんな文章があります。

私は、人間の本質とは「ホモ・フューネラル」(弔う人間)だと確信します。
すでに10万年以上も前に旧人に属するネアンデルタール人たちは、近親者の遺体を特定の場所に葬り、時にはそこに花を捧げていたといいます。
死者を特定の場所に葬る行為は、その死を何らかの意味で記念することに他なりません。
しかもそれは本質的に「個人の死」に関わります。つまり死はこの時点で、「死そのものの意味」と「個人」という人類にとって最重要な二つの価値を生み出したのです。
ヒトと人間は違います。ヒトは生物学上の種にすぎませんが、人間は社会的存在です。ある意味で、ヒトはその生涯を終え、自らの葬儀を多くの他人に弔ってもらうことによって初めて人間となることができるのかもしれません。葬儀とは、人間の存在理由に関わる重大な行為なのです。(一条真也オフィシャルサイト
多くの他人に弔ってもらうことによって初めて人間となることができる。
節子の旅立ちは賑やかでした。
この本の著者の佐久間さんからも生花を供えてもらいました。
節子の友人たちもたくさん来てくれました。
2年半経って、最近ようやくあの日のことが素直に思い出されて、弔う人たちの顔を思い出します。

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