■節子への挽歌993:透き間の時
節子
時間を持て余しています。
節子がいた頃は、何であんなに時間がなかったのだろうかと不思議に思うほどです。
今日もある人が「忙しそうですね」とメールをくれました。
よそから見ていると私は忙しいのかもしれません。
忙しいといわれるのはとても残念ですが、そう見えるのであれば、そうなのでしょう。
そうならないように努力してはいるのですが、
節子は知っていますが、私は「忙しい」といわれることを恥に思う人間です。
同時に、他者に対しては「忙しい」という言葉はできるだけ使わないようにしています。
「忙しい」とは「心を失うこと」だと昔ある人から言われたからです。
それ以来、集まりなどでの挨拶でも「ご多用のところ」と言っても、「お忙しいところ」とは言わないようにしてきました。
最近、時間を持て余していますが、実はこれは「忙しい」からです。
ひねくれた言い方になりますが、私にはとてもぴったりきます。
そして最近の私の状況は、まさに「忙しいが故に暇」なのです。
気になって「暇」という文字の意味を調べてみました。
「透き間の日」という意味だそうです。
ますます私の今の気分にぴったりです。
なにをやっても充実感がないわけが、これでわかりました。
今は「透き間の時」なのです。
世間的に言えば、やるべきことはそれなりに山積みなのです。
そのリストはいつも机のメモに書かれていますが、10項目を下回ることはありません。
約束の期限を切れたものもいくつかあります。
でも、やる気が起きないためにやれないのです。
そして「時間を持て余す」状況になるわけです。
もともと私にはその気がありました。
節子は「修は忙しいのか暇なのかわからない」とよく言っていました。
節子が「忙しい」と「暇」が同じことであることを理解してくれていたかどうかは、いささか疑問ですが、そのうちに慣れてくれました。
やるべきなのに、なぜやる気が起きないのか。
心が満たされていない、つまり「心がない」からです。
最近、そういう状況が増えています。
その理由がようやくわかりました。
私はいま、「透き間の時期」にいるのです。
無理をすることはありません。
誰かに大きな迷惑をかけない範囲で、暇の状況を受け容れていようと思います。
今日もとても暇で、退屈していました。
その一方で、机の上にある「課題リスト」をみると少し気が重くなります。
透き間の時間を生きるのも、それなりに疲れるものです。
| 固定リンク
「妻への挽歌05」カテゴリの記事
- ■第1回リンカーンクラブ研究会報告(2021.09.06)
- ■節子への挽歌1000:パッセンジャーズ(2010.05.29)
- ■節子への挽歌999:新緑(2010.05.29)
- ■節子への挽歌998:花の季節(2010.05.27)
- ■節子への挽歌997:「解けない問題」(2010.05.26)
コメント
最近「生きて・いる」「死んで・いる」の「いる」について考えていました。
「いる」とは、「ここに在る」ことで、同じなんだな、と。
そして、「生きて・いない」「死んで・いない」も同じように考えると
「いない」は、「ここに在らず」で、佐藤さんが仰る「心がない」と
似ているなーと思いました。
私は愛する人を送って以来、心ここに在らずで、「生きて・いない」と感じているのですが
かと言って「死んで・いる」訳でもないく・・・。
何とも魂の所在が中途半端なのですが、二つの世界の中間に「在る」のかな、と思います。
佐藤さんの心も、とある所に「在る」のでしょうか。
投稿: いろは | 2010/05/22 21:15
佐藤さん
我孫子のへっぽこミュージシャンです
昨日 買い物があり、駅前のイトーヨーカドーに行きました
駅側入り口ホールに銀座の画廊が絵を持って来ていました(出張ギャラリー)
ふと目に留まったのが 千住博氏の滝の絵です。雑誌で目にしていたので、おっ あれか と言う具合に引き寄せられました。
眺めていると、係の女性(アートコーディネーターなる肩書き)が話しかけてこられました。しばらくその版画について説明を受け、話しているうちに、次々に展示している絵の話しに移り、気がついたら1時間以上 徒然なるままに話していました。なんとなく、会話がかみ合ったのでしょう。目に写る絵について思うがままに、その絵の中の世界の話しや画家についての話しなど、思いがけず会話を楽しませてもらいました。
会社に行こうかと思っていたのですが、生憎の雨だったので、出社はやめ、思うがままに時に身を預けたおかげで、絵を介してちょっとした旅行ができました。
魂もその中を自由に飛んでいたように思います。
振り返ると、普段は、あれもやらなきゃ、これもやらなきゃと、なかなか心が落ち着かないのですが、不器用な自分にとってはめずらしくいいい時間の過ごし方ができたなあ と思います。
『やらなきゃ』を 捨てたから 「得られた」のではないかと振り返って思います。
これからも このように、計画の無いプチ旅行をちょくちょくしてみたいなあと思いました。
ちなみに 明日(火曜)まで その出張画廊はやっています。
色の綺麗な絵が多かったですよ。
音楽もいいですけど 絵もいいですねえ
投稿: 宮内 俊郎 | 2010/05/24 15:09
いろはさん
いつもありがとうございます。
「とある所に「在る」」
そうかもしれません。
自分の居場所がどむ定かでないのかもしれません。
しかし
「いずれでもある」
あるいは
「場所を超えた」
と言う感じもしないでもないのです。
奇妙ですが。
投稿: 佐藤修 | 2010/05/24 18:37
宮内さん
ありがとうございます。
私もいま見て来ました。
たださっと流しただけですが。
私はどうも日本画があまり好きではないのです。
千住博さんの絵がすきなのですね。
なにやら霊的なものを感じさせますね。
『やらなきゃ』を 捨てたから 「得られた」のではないか
そうですね。
でもなかなかそれを捨てられない。
名かなk最近はお話しする機会がないですね。
投稿: 佐藤修 | 2010/05/24 18:47
佐藤さん
すぐ行かれたのですね ヨーカドー辺りに用がお有りだったのでしょうか
いずれにしても情報提供者としては嬉しいです
特別日本画が好きというわけではありません
芸術一家である千住家の皆さんには少し興味を抱いていたのと、
あの絵は液体を上から流しているので絵画的ではないのにマイナスイオンまで感じられる不思議な世界を表現しているので、真近で見てみたいと思っていたのが、日をあけずに目の前に現れたので
引っ張られただけです これも リインカネーションに入るのでしょうか?
私は画家の中では セザンヌとラウル・デュフ が好きですね
先日 我孫子市美術家協会の面々から 誘われたこともあり
これも何かの縁 タイミング と思い そろそろ 絵を描こうかなと
最近思っております
宮内
投稿: 宮内 俊郎 | 2010/05/25 08:45
宮内さん
別に用事はなかったのですが、時間があったので見に行きました。
一応、できるだけ体験するのが私の基本姿勢なのです。
ただ会場は少し入りにくかったです。
入り口が詰まっていたのと、閉鎖空間でした。
こういう場の設定の仕方次第でかなり違うものだと思いました。
イトーヨーカ堂にはああした空間をうまくアドバイスする人がいないのか、いつもあまり空間設計がうまくないような気がします。
まあ余計な話ですが。
宮内さんの絵もまた見たいものです。
投稿: 佐藤修 | 2010/05/25 18:13