■殺処理
続けてまた時評です。
口蹄疫でたくさんの牛が殺処理されています。
「殺処理」
恐ろしい言葉です。
この言葉を最初に知ったのは、鳥インフルエンザの時ですが、心が凍りつきました。
その言葉にまた出合うことになりました。
感染を広げないための「コラテラル・ダメッジ」なのでしょう。
でも恐ろしい風景ではあります。
だからどうすればいいのか、という考えがあるわけではありません。
「殺処理」を止めるべきだということでもありません。
ただただ恐ろしいだけの話です。
私たちは「言葉への畏れ」を忘れたのではないかという気もします。
それにしてもこんな無神経な言葉をだれがつくったのでしょうか。
人が生きるために多くのコラテラル・ダメッジが必要なことは否定できません。
でもやりきれない気がします。
そしてこうした風景がどうしても自分に重なってきてしまいます。
おそらくその状況になれば、私自身もきっと「殺処理」の対象になるのでしょう。
いやはや暗くなってしまいます。
胸を張って死を選んだ、切腹の文化や自爆の文化もなにやら理解したくなるほどの気分です。
言葉は大事にしなければいけません。
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