■節子への挽歌991:自慢できる相手の不在
昨日、節子の笑顔にあったせいか、どうも現実に戻れません。
無性に節子の近くに行きたい気持ちを抑えながら、その一方で節子の励ましを感じながら、大して意味があるとも思えないことをしながら今日も1日を終えました。
さまざまな活動に関わらせてもらってきた関係で、毎日いろんな人からメールをもらいます。
そこには私への謝意も少なくありません。
私のおかげである出会いがあり、そこから新しい物語が始まったというようなうれしい報告もあります。
そういうメールが来ると、私も少しは意味のある存在なのだと思わないわけでもありません。
しかしそのことを「自慢」する相手は今もいません。
自慢したくてやっているわけではないのですが、「喜んでもらえたよ」と誰かに言いたくなることもあるのです。
お恥ずかしい話ですが、私の活動のモチベーションは、昔から節子に褒めてもらうことだけでした。
お金や名誉などは、私にはほとんど興味のないことです。
そういうものを持っている人ほど、私の世界からは遠い世界の人であることが多いこともよくわかっています。
私にとっての唯一の喜びは、自分を真に理解している人が一緒に喜んでくれることです。
喜ばなくてもいい、一緒に喜怒哀楽してくれることなのです。
その人はもういない。
それが私の人生を変えてしまいました。
最近、娘たちが私の話を聴いてくれるようになりました。
そしてわずかばかり喜怒哀楽を共にしてくれるようになった気がします。
しかし、やはり節子とはちがいます。
もうしばらくは、この孤独さを続けなければいけません。
目いっぱい見栄を張りながら、生きなければいけません。
本当は節子の世界で一緒にゆっくり休みたいです。
一人で生きることはそれなりに疲れます。
疲れた時には、素直に疲れる。
それが私たちの生き方でした。
ブログを読んでくださっているある人が、「元気になってよかった」とメールをくれました。
にもかかわらず、こんなことを書いてしまいました。
人生はなかなかうまくいきません。
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