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2010/05/02

■節子への挽歌973:人は何を守るかによってどんな人か決まる

節子
昨夜、寝る前に習慣になっている寝室のテレビのスイッチを入れたら、映画「ダ・ヴィンチ・コード」をやっていました。
ちょうど謎解きの最終場面で、ラングレーとソフィーがロスリン礼拝堂の地下室で話しあっているところでした。
ラングレーの言葉が耳に入ってきました。
「人は何を守るかによってどんな人か決まる」

心に響きました。
これは私へのメッセージに違いないと思いました。
書棚にあった原作の「ダ・ヴィンチ・コード」で、その言葉を探しましたが見つかりません。
それで今朝、ネットで調べたら、いろいろな人が「名言」として取り上げていました。
どうやら映画の中でしか使われていない言葉のようです。
たしかに終わり方は、映画と小説は違っています。
この映画は前に観ていますが、この言葉の記憶はありませんでした。
その時には私の心には響かなかったのでしょう。
でも今は、ふるえるほどに深く響きます。

私には「節子を守れなかった」という思いが深くあります。
決して守れなかったことではありません。
私にもう少し「守ろう」という意志があれば、節子は今も私の前で微笑んでいたでしょう。
私が守っていたのは、節子ではなく、私だったのかもしれません。
そして、節子は、自分よりも私を守っていたのかもしれません。
そう思うと、右脳は穏やかではありませんが、左脳は鎮まります。

私はいつもだれかに守られてきました。
子どもの頃から、そうした感じを持っていました。
誰かが守ってくれる、たぶん昔はみんなが持っていた感覚かもしれません。
その「誰か」は、特定の個人ではありません。
特定の個人の場合もありますが、その奥にいる「誰か」です。
私の感じでは「お天道様」がいちばんぴったりしますが。
あるいは「みんな」と言う言葉が合っているかもしれません。

私は「守られること」に甘んじすぎていたのかもしれません。
節子を守ろうなどと思いながらも、結局は節子に守られていた。
今もそうですが、そんな気がしてなりません。
私は「守る」よりも「守られる」存在として、この世に生を受けたような気がします。

私には守ろうとする「何か」がなかったのではないか。
そんな恥ずかしさを、最近、感じています。
自分に関しては守るものはないというのが、私の生き方ですが、実は私がみんなに、つまりお天道様に守られすぎていたおかげの、言葉遊びでしかないのかもしれません。

ちなみに、この挽歌の読者から、私は「自虐的」だといわれました。
今回の記事もそう感ずる人がいるかもしれません。
決してそうではないのです。
大きな生命に通ずれば、自虐などと言う概念は一切生じません。
いささか蛇足ながら。

「人は何を守るかによってどんな人か決まる」
時評編で、もう少し続けたいと思います。

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