■世界卓球を見ていて疲れ切りました
一昨日と昨日、世界卓球女子の中継をテレビで観てしまいました。
観てしまったというのは、途中で何度もテレビを切りたくなったのです。
なぜなら、その緊張感に観ているだけでも疲れてしまったからです。
特に、福原愛選手のゲームは息がとまるほどの緊迫感がありました。
子どもっぽい顔に、それがそのまま出ていたからです。
私なら逃げ出したくなって、倒れてしまうかもしれないと思いました。
あの緊迫感に耐えられるだけでも、私には驚異です。
考えてみれば、私はいかにも安易な人生を過ごしています。
自分をしっかりと生きているという自負はあったのですが、それは自分の世界に逃げてきたことを意味するのではないかと、少し思いました。
緊迫感のある世界を生きたことは、私にあるでしょうか。
確かにいわれて見れば、「平和ボケ」した間抜けな人生だったのかもしれません。
そう思いながら頭に浮かんだのは、鳩山首相でした。
彼はもしかしたら私以上に緊迫感のない人生を過ごし、それが習性となったために、普天間問題に関してもまったくの緊迫感のない思考をしてきたのではないか。
要するに従順な優等生でしかなかったのかもしれません。
優等生ほど扱いにくい存在はありません。
優等生とは主体性を閉じ込めた存在ですから、生きていないのとそう変わりません。
それにしても、凄い緊迫感で、あの空気に負けない選手たちには尊敬の念を持ちます。
サッカーなどであれば、ソーシャル・キャピタルの緊迫感を身体的に逃がす方法はあるでしょうが、卓球の場合にはとても狭い場所でしか動きがとれず、しかも時間的にも休む暇がありません。
観ているだけで胸が苦しくなるほどですから、当人の緊迫感をいかほどのものでしょう。
そのわずか1割でもいい。
その緊迫感を内閣を主導する人たちには持ってほしいです。
口蹄疫問題にしても、たとえば、宮崎県の知事はもう少し緊迫感を持って対してほしいものです。
もしそうしていたらこんな事態にはならなかったかもしれません。
もう一つ思い出したのが、韓国と北朝鮮の間に高まっている緊迫感です。
緊迫感を持続させることで社会を統治することは、支配する人たちの常套手段です。
世界卓球の試合をきちんと観たのは生まれて初めてです。
もう2度と観ないでしょう。
あれほどの緊迫感に耐えるほど私は強くないからです。
今日、69歳になりました。
静かな余生の意味が少し理解できるようになってきました。
生きることから、そろそろ抜け出してもいいかもしれません。
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