■節子への挽歌989:ふたりの自分
節子
今日、湯島に来てくださった方が、用件が終わって雑談をしていたら、実は私も妻を一昨年亡くしましたと言われました。
まったく予想もしていなかったことだったのですが、おかしな話ですが、その一言で、その人への信頼関係が一挙にできあがってしまいました。
もちろん初対面の人です。
その方は17年間、連れ添ったそうです。
1年半、家から出られなかったそうです。
帰り際に、その1年半の気持ちは説明できませんよね、というと、誰にもわかってもらえないでしょうね、という答が返ってきました、
私もそうです。
元気がないとか落ち込むとか、悲しいとかさびしいとか、そういうこととはどこか違うのです。
そしておそらく、私とその人の場合も、それぞれに違うはずです。
伴侶との別れは、自らの人生の意味づけを変えてしまうようなところがあって、自分でもうまく理解できない時期があるのです。
誰かに分かってもらいたい気がする一方で、わかるはずがない、わかるなどとは言わせない、というような、いささかいじけた気持ちもあるのです。
私は今日で989日目です。
この挽歌の数字と節子がいなくなった日からの日数は同じです、
いまでは自宅から外出するのも抵抗はありませんし、他者の言葉にも素直に耳を傾けられますが、誰にもわかってもらえないと思いたい心境は変わっていないような気がします。
節子と一緒だったときの自分と、節子がいなくなってからの自分とは、私の場合、明らかに違います。
そして、いまは、そのふたりの自分が私の中に共生しています。
さらにややこしいのですが、実はもう一人の自分がいるような気もします。
最近はそんな複雑な自分を生きています。
心身は、魂の宿り場だということを実感できるようになってきました。
昨日は帰宅が遅くて疲れきってしまっていたので、ブログのアップが遅れてしまいました。
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