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2010/06/08

■自己作成を基本とした介護保険制度の設計

一昨日、介護保険関係のシンポジウムに参加させてもらいました。
介護保険のケアプランを自己作成する動きを広げていこうという活動に取り組んでいる全国マイケアプラン・ネットワークの主催でした。
そのグループが全国の介護保険の実態調査を行ったのですが、その報告を兼ねたシンポジウムでした。
私は介護保険に関しては一般論しか知らないのですが、シンポジウムでの多くの人の発言を聞いていて、どうもどこかに違和感があるのです。
それが何か気になっていたのですが、パネリストとして発言させていただいているうちに、2つの言葉への思い込みに気がつきました。

一つは、「専門家」という言葉です。
介護保険を使いこなし、介護をうまく行っていくためには、「専門家」が必要だといわれるのですが、その「専門家」ってなんだろうということです。
「介護の専門家」、その言葉にみんな呪縛されているのではないかと言うことです。
介護に専門家などいるはずもありません。
介護の状況は人によってまったく違いますから、生半可な先入観や一般論でもって、「専門的」に対処していいのかと言うことです。
介護を生活の側面から具体的に考えれば、専門家は当該者と共に生活している人と考えるのがいいでしょう。
介護に専門家がいるとすれば、当人もしくはその人と生活を一番重ねている人のはずです。
知識のある人を専門家と呼ぶ風習が、昨今の「知識社会」にはありますが、そんな専門性など生命の多様さの前では無力だと思う謙虚さが必要です。
これは医療の世界にも当てはまります。
医者もまた所詮は技術者でしかありません。
古代ローマ社会においては、医師は職人的労働者だったそうですが、最近の医師はその謙虚さを失っています。

ケアプランは当事者もしくはその近くの人が主役になってつくるのが当然です。
そして、もしケアプランは自己作成を基本とするとして、介護保険制度を基本設計したらどうだったでしょうか。
たぶんいまとはまったく違ったものになったでしょう。
ケアマネージャーなどという、訳のわからない専門家は生まれなかったでしょう。
代わりに、ケアカウンセラーとかケアサポーターという職業が生まれたかもしれません。
マネージャーとサポーターとはまったく違ったミッションになるでしょう。
専門知識がなければ、ケアプランがつくれないという場合の「専門性」とは何なのか。
とても重要な視点ではないかと思います。

もう一つ、気になったのは「介護」という言葉です。
この言葉の持つ、マイナスイメージを克服しなければいけないのではないか。
これについては明日、続きを書くことにします。

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