■節子への挽歌1010:生命のみずみずしさ
最近、どうも自分自身の生命が乾いてきているような気がします。
もしかしたらそれが元気の出ない一因かもしれません。
このところ日課になった庭の花への水やりをしながら、そんなことを考えました。
生命もまた乾いてはいけないのかもしれません。
意図して「枯れた生」を生きようという人もいますが、枯れた生もまた、もしかしたら乾いてはいけないのかもしれません。
この挽歌の記事を書いていても、どうも1年前とは違うのです。
涙が枯れたとか、悲しみが癒されたとか、そういうとわかりやすいでしょうが、私としてはそういう感じとはちょっと違うのです。
今でも涙はすぐ出ますし、悲しみはむしろ深くなっています。
にもかかわらず、どこかで自分の生命のみずみずしさを感じなくなってきているのです。
そのせいか、書いている内容が我ながら退屈なのです。
だから分量が長くなります。
内容がある時には文章は短くなることを、私は経験上、感じています。
老いてもみずみずしい人はいます。
しかし、愛する人を失ってもなお、みずみずしく魅力的な人はいるでしょうか。
もしいたら、ぜひお会いしたいです。
どなたかご存知であれば教えてください。
人のみずみずしさは、「愛する人(もの)」からもらっているのかもしれません。
もしいまなお私が節子を愛しているのであれば、生命が乾いてくるはずがありません。
どこかで私の生命の回路がおかしくなってきているような気がします。
節子のためにも、いや節子のためにこそ、みずみずしさを取り戻さなければいけません。
どうしたらそれができるのでしょうか。
しかし、生命は本来「みずみずしい」ものです。
だとしたら、素直に生きれば、みずみずしさは戻ってくるでしょう。
まだまだ素直さが足りないのでしょうか。
もう十分すぎるほど素直に生きているつもりではあるのですが。
最近、こんなことを時々考えています。
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