■節子への挽歌1024:さまざまな愛し方
節子
人の関係はとても難しいものです。
この頃感ずるのは「愛し方」は人によって違うということです。
愛し方が違うと、愛することが相手を傷つけることさえあります。
節子がいなくなってから、私が気づいたことの一つがそれでした。
私たちは比較的「愛し方」が似ていました。
だからきっとうまくいったのです。
そうはいっても、私たちに問題がなかったわけではありません。
私の「言葉」はかなりストレートすぎて、社会性がありません。
ですから人によっては傷つく場合が少なくありません。
節子もきっと慣れるまで大変だっただろうと思います。
それに発想も少し常識的ではありません。
今日も、娘に「薬物を飲んで何が悪いのかね」と質問して、たしなめられました。
暴力団が悪いのなら警察はなぜ悪くないのか、それもよく納得できていません。
私にはわからないことが多すぎるのですが、そんな質問はなかなか誰にでもできるわけではありません。
節子しかいませんでした。
娘に「節子はいつもちゃんと聴いてくれていたよ」といったら、お母さんはただ「また始まった」と聞き流していただけだよといわれました。
そんなはずはないのですが。
知人から、夫の精神的暴力のため子どもを連れて家を出るというメールが届きました。
驚きました。
仕事もNPO活動も順調そうで、そんな悩みは微塵も感じさせなかった人でした。
これもおそらく「愛し方」のずれなのではないかと思いました。
私がいても喧嘩をするご夫婦もいました。
仲が悪いわけではありません。
喧嘩できるほどに愛しているともいえますが、外からは誤解しがちです。
夫婦それぞれが別々に海外旅行している夫婦もいます。
折角なのになぜ一緒に行かないのか私には不思議ですが、彼らから見れば、なんで佐藤夫婦はいつも一緒に旅行に行くのかと言われるでしょう。
愛すればこそいつも一緒にいたいという「愛し方」もあるでしょうが、愛すればこそいつも一緒にいる必要もないという「愛し方」もあるでしょう。
と考えていくと、私はもしかしたら節子を愛していなかったのかもしれません。
ただただ「一緒にいたかった」のかも知れません。
たまには一人になりたいわ、と節子が言っていたのを聞いたような気がします。
節子はいま、一人でいることを楽しんでいるでしょうか。
まあ節子に限ってそんなことはないでしょう。
節子も私ほどではないにせよ、私と一緒にいるのが好きでしたから。
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