■節子への挽歌1016:節子はどこにいるのか
節子
いまでも節子はいったい「どこに」いるのだろうか、と思うことがあります。
ついつい娘たちにまで、声に出して言ってしまうこともあります。
節子が消えてなくなるわけはない、だとしたら、どこかにいなかれば辻褄があわない、そんな思いが今も自然と浮かんでくるのです。
彼岸に旅立っていった親しい人たちを思い出してみればすぐわかりますが、彼らは決していなくなったわけではありません。
生きている時もそうであったように、その親しさに応じた距離を保ちながら、それぞれの世界の中に生きています。
ですから、その寂しさはあまり意識せずに越えられます。
しかし、生をあまりに深く共にしてきた伴侶との距離は、どうも次元が違うような気がします。
その寂しさに越えるのは、簡単ではありません。
だからこそ、「どこ」にいるのだろうと思ってしまうのです。
「どこかにいる」という思いと「どこにいるのか」という思いは、似ているようで、まったく違います。
いいかえれば、「どこかにいるはずだ」と思って安心できるのと、安心できないのとの違いです。
その所在まで確かめたくなり、探しに行きたくなるのです。
その思いから、イザナミは黄泉の国に、オルフェウスは冥界にまで、探しに行ったのです。
しかし彼らの「思い」は、私には理解できません。
なぜなら「連れ戻そう」としたり、「逃げ帰ったり」していますから。
覚悟ができていません。
私なら、もし再会できたなら、そこに留まるでしょう。
なぜなら、今の私にとって、この現世には必ずしも「居場所」が見つからないからです。
節子がいなくなった現世は、なぜか落ち着かないのです。
節子は今、落ち着いた場所で平安でしょうか。
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