■節子への挽歌1025:共感に共感できないことに共感
節子
今日は私の好きな言い回しのタイトルです。
「共感に共感できないことに共感」
自殺のない社会づくりネットワークの交流会で、「共感」という言葉が話題になりました。
サロンなどでも「共感」が話題になることはしばしばあるのですが、いつも私は違和感を持ちながら話を聞いています。
ところが今回はある人が、「共感するといわれても、そんなことなどありえないと思う」という趣旨の発言をしたのです。
彼女は、自らも自殺体験があり、今はそこから脱け出して、むしろ自殺につながるような人たちの相談に乗っています。
彼女の発言を聞いて、思わず私もそれに賛成してしまいました。
いつも言いたい気分ではあるのですが、とても身勝手なような気がしていえなかったのです。
若い彼女には、そんな「余計な分別」はいらないほどの強烈な体験があり、私とはまったく発言の重みが違います。
もっとも、自殺体験と愛する妻を見送るのとどちらが「強烈な体験」かは、そう簡単には評価できません。
言うまでもありませんが、私にとっては、自らの死よりも、節子の死が、強烈です。
しかし、体験したことのない人はそうは思わないでしょう。
自分の死と他者の死の衝撃は、まちがいなく他者だと私は思っていますが、それはなかなか体験できないことです。
ところで、共感という言葉を素直に受け容れられないという彼女の発言に共感してしまうのは、どこかおかしさがあります。
私のこの発言も、彼女には受け容れてもらえなかったかもしれないと発言した直後に気づきましたが、私がとても共感したことも間違いない事実なのです。
他者の悲しみや辛さを共にすることは、本来出来ようはずがありません。
そのことはみんな知っています。
でもどこかで、共感してほしい、共感したいという気持ちもあるのです。
そこが人の心の悩ましさです。
「共感してほしいからこそ共感するなどと言ってほしくない」と思うのです。
悲しみや辛さが深いほど、人は「共感」という言葉を深く考えます。
共感されたくないほどに共感してほしい状況にある人には、「共感」という言葉は禁句です。
ややこしい話でした。
こういう話を、節子としたことがとてもなつかしいです。
ちなみに、私は、私のすべてをいつも節子に共感してほしがっていました。
私は、節子のすべてに共感していました。
ですから、共感できない節子の言動にも共感していたのです。
これくらいでやめないと、節子に怒られそうですね。
はい。
| 固定リンク
「妻への挽歌06」カテゴリの記事
- ■第1回リンカーンクラブ研究会報告(2021.09.06)
- ■節子への挽歌1200:節子がいない不幸(2010.12.15)
- ■節子への挽歌1199:柳原和子さんに何かあったのでしょうか(2010.12.14)
- ■節子への挽歌1198:私の仕事好きが節子は不満でした(2010.12.13)
- ■節子への挽歌1197:解けない難問(2010.12.12)
コメント