■節子への挽歌1026:節子さんの時間
倉敷の友澤さんが朝のラジオ体操のアナウンサーの声が節子さんにそっくりで、私たちは「節子さんの時間」と言っているのですと電話で話してくれました。
それで今週は毎朝、6時20分からラジオを聴いているのですが、節子らしき声には出会えません。
もしかしたら倉敷と千葉では違うアナウンサーが担当しているのかもしれません。
あるいは、友澤さんが聴いていた「節子の声」と私が聴いていた「節子の声」は違っていたのかもしれません。
人の印象はそれぞれかなり違います。
テレビに出ている人を見て、あの人はだれそれに似ているね、と言っても、娘たちから似ていないといわれることが時々あります。
人が見ている風景は、それぞれに違うのです。
娘は先日、電車の中で節子に似た人を見つけたと言いますが、残念ながら、私はまだ節子に似た人に出会ったことがありません。
もし会ったらどんな気持ちになるでしょうか。
しかし自信を持って言えますが、節子に似た人に会うことはないでしょう。
なぜならば、節子は私の世界の中ではかなりの変化をしているからです。
変化というよりも、世代によって成長してきた節子が、私の意識の中では融合されてしまっているのです。
しかも容貌と意識や魂までもが融合しています。
考えても見てください。
若い節子と病身の節子とが融合したらどうなるでしょうか。
それはおそらく百変化する「異形の節子」です。
つまり、「この世のもの」ではないのです。
しかし、私にとっては、そうした異形の節子も異形には見えないでしょう。
逆に言えば、表層的に容貌が似ていても、たぶん私には「似ている」とは思えないはずです。
無意識の世界において、私には節子の魂の奥の奥までがわかるのです。
ですから瞬時にして、どんな人であろうとも、節子ではない人は見分けられるでしょう。
そう思いながらも、しかし、今生で、もう一度、節子に会いたいとも思います。
せめて声だけでも。
そんなわけで、明日の朝も聴こえるはずのない節子の声を聴いてみようと思います。
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