■「ため」族の悲劇
少し前に「社会のため」などと考えないほうがいいと書きました。
「社会のため、がなぜ悪いのか」とお叱りを受けました。
言葉は本当に難しいです。
バブルがはじけだした20年ほど前に、日経ビジネスが「会社のためが会社をつぶす」と言う特集を組みました。
会社のためと思ってやったことが裏目に出て、会社に大きな不良債権を発生させたというような話がたくさんありました。
企業不祥事の多くもまた、最初は「会社のため」から始まります。
「目先の、しかも単に儲けのため」の行為が、会社が時間をかけて育ててきた信頼や顧客を裏切り、結局、倒産してしまった事例は少なくありません。
自分勝手に「会社のため」などと言ってはいけないのです。
「社会のため」も同じです。
そもそも「社会」などというのは、あまりに多義的で、物事の基準には到底なりません。
使い手や聴き手が、勝手に解釈してしまうのが関の山です。
自分の狭い了見で、「社会」を勝手に定義し、それ以外の「社会」への配慮を怠る。
個人が考える「社会」の狭さを自覚しなければいけません。
ですから、「社会のため」などと発言する人は、私には何も考えていない人に思えます。
そんな人は信頼に値しません。
善人でしょうが、そういう善人が一番始末が悪いことも少なくありません。
事実、私の周りにもそういう人は少なくありません。
私は、そういう、「○○のため」という基準で言動している人を「ため族」と呼んでいます。
人は、「ため」ではなく、自らの信念で言動しなければいけません。
そして、責任は自分で取らなくてはいけません。
こんなことを書くと、また「心理主義の罠」ではないかと言われそうですが、言葉は本当に難しい。
「ため族」は、自らがないために周囲に影響されます。
自らを持たない人たちの集団は、ある状況においては最強です。
人間を要素にして、この最強のチームを構築してきた人が、これまでは世界を制してきました。
しかし、おそらくその時代は終わりだしています。
組織原理が変わりだしているのです。
そんな気がしてなりません。
最近の民主党や民主党政権には、以前まだ「ため族」が多いです。
多様な異質性を包摂した、新しい政党への期待を少し抱いたのですが、どうもそうではないようで、相変わらず小賢しい人智で右往左往しています。
おそらく間もなく瓦解するでしょう。
自らの信念が無いのなら、政治家にはなってほしくありません。
信念があるのであれば、右顧左眄せずに信念を通すべきです。
自分を生きないことほど、与えられた生命への裏切りはありません。
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