■節子への挽歌1035:「未完の生命」
昨日、共体験について書きましたが、その後、こんなことを考えました。
「寝食を共にする」という言葉がありますが、夫婦は、まさに寝食を共にし続ける関係です。
それが40年も続けば、意識や感性が同一化するのは当然です。
顔かたちまでが似てくるという調査結果もあるそうです。
私たちも、お互いに影響を受け合って、次第に好みや考え方は似てきたように思います。
しかし、それは、お互いが相手の考えや好みに近づいたのではないように思います。
私も節子も、自分の好みが変わったわけではないからです。
ではなぜ「似てきた」のか。
いささか理屈っぽく言うと、共体験を重ねるたびに、新たな意識や感性が生まれ、それをそれぞれが自らの世界に付加してきたのではないかと思います。
つまり好みが変わったのではなく、好みが広がったのです。
広がることで、重なる部分が大きくなっていく、つまり「似てくる」わけです。
言い方を替えれば、共体験は、世界を広げていくわけです。
これは何も私たちだけのことではありません。
夫婦はそうやって自分たちの世界を広げていくのではないのか。
そしてその世界の中に、みずからの主張は融け込んでいき、飲み込まれていく。
さらに、そうして育ててきた世界は、次第に、同じように人が育んできた周りの世界と融けあいながら、大きな世界の中に徐々に沈んでいく。
それにつれて、個的存在としての生命は自然に大きな生命のなかに消えていく。
それが、個別の生命体の自然の一生なのかもしれません。
そこではおそらく「死」は「日常」なのです。
ところが、私たちは、その途中で、「未完の生命」を終えてしまった。
それを「幸い」ととるか「不幸」ととるかは、迷います。
なぜなら、「未完のプロジェクト」は未完なるが故に、終わっていないからです。
しかし、同時に、未完の世界は幻のように消えてしまったのです。
まだ周辺の世界に融けこむ前に、です。
営々として40年築き上げてきた、節子と私の世界がなくなってしまった。
人がいなくなるとは、世界がなくなるということでもあるわけです。
なくなった世界で、生きることのむなしさと辛さは、当事者でなければわからないでしょう。
残された片割れにとっては、生きることと死ぬこととは、ほとんど同じことなのです。
そんな中途半端な状況から、抜け出しながら、また引き戻されながら、行きつ戻りつしているのが、最近の私のような気がします。
最近、なぜか疲れるのですが、その理由はこうしたことにあるのかもしれません。
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