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2010/07/17

■節子への挽歌1049:男は妻などもってはいけない、ことはありません

吉田兼好は「間」の好きな人だったようです。
有名な「徒然草」も、要するに「つれづれなる」暮らしの間に楽しんだ書です。
ものもできるだけ持たないことを好んだようです。
私も一応、頭の中ではそれにあこがれていますが、なかなかそうはならず、わが家はものであふれています。
しかし、最初に失ったのが、最愛の妻になるとは、思ってもいませんでした。

間とは、距離を意味しますから、まさに人の生き方につながっています。
愛する人との距離も「間」にとっては重要です。
兼好の場合はこうでした。

妻(め)というものこそ、男(おのこ)の持つまじきものなれ。「いつも独り住み(ひとりずみ)にて」など聞くこそ、心にくけれ、「誰がしが婿に成りぬ」とも、また、「如何なる女を取り据ゑて、相住む」など聞きつれば、無下に心劣りせらるゝわざなり(第190段)
男は妻などもってはいけないというのです。
なぜならば、
いかなる女なりとも、明暮(あけくれ)添い見んには、いと心づきなく、憎かりなん。
「間」がないと、どんなに愛する人でも飽きるだろうというのです。
よくいわれる「俗説」です。
しかし、そんなことはありません。
愛でれば愛でるほど好きになるものはあるのです。
人も同じです。
私は節子に飽きたことはありません。
そこからすべての世界が、それこそ虚空蔵さえもが、見えたからです。

これは、「間」を3次元で捉えるかどうかに関係しているように思います。
前に書いた和泉式部のように、3次元の世界を超えれば、たぶんまったく違ってくるでしょう。
そういう視点からは、妻を持とうが持つまいが、瑣末な話なのです。
それにこだわる兼好の、限界がそこにあります。
世界が狭いのです。
それは、「つれづれなるまゝに、日ぐらし硯に向かひて」という書き出しの文章に現れています。
兼好も、「間」にあこがれながら、結局は「間」がとれなかったのではないかと思います。

妻を持つかどうかは、人それぞれです。
しかし、「愛するもの(ひと)」を持つことは、誰にとっても大事なことではないかと思います。

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