■節子への挽歌1045:「私は、私と私の環境である」
節子
私の暮らしの周りには、節子を思い出させるものがたくさんあります。
それらが、私の心の平安を支えてくれる一方で、節子への思いを意識化させることで、時に私の歩みをとどめさせることにもなります。
愛する人を失った人は、こうして前にも後にも進めなくなるのかもしれません。
できることなら、隠棲して、節子の供養に殉ずるのが一番の平安を得られるのでしょうが、今の時代はそうした選択肢をほとんど不可能にしているように思います。
もちろんそれは、私の生きる力の弱さにも拠るのですが。
時評編では時々書いていますが、最近、オルテガを思い出しています。
オルテガ・イ・ガセト。スペインの哲学者です。
オルテガには有名な言葉があります。
「私は、私と私の環境である」
ややこしい文章ですが、こう言い換えてもいいでしょう。
私は、自らが置かれている環境を舞台にした、私を主役にしたドラマである、と。
オルテガは、それを「生のプロジェクト」といいます。
私には、とてもしっくりくる表現です。
私はプロジェクト。私はドラマ。私は常に変化し続ける空なる物語。
この言葉に出会ったのは40年ほど前ですが、私の生き方にとても重なっているのを感じました。
「私の身体や精神」と「私を取り巻く具体的な環境」は、プロジェクトという視点で考えた場合の「私」にとっては同値なのです。
そして、プロジェクトで実現すべきことは、創造すべき「私」なのです。
相変わらずややこしいですが、さらにややこしいのは、この「私」(プロジェクトとしての私)には今や「節子」も含まれてしまっていることなのです。
人生を共にしようという思いで結婚した私にとっては、その時から節子は私に包摂されるべき存在でした。
言い方を換えれば、新しい「私」の出現です。
ドラマは第2幕に移ったのです。
ですから私はその段階で、それまでの自分を思い切りアウフヘーベンしたのです。
そして、いま第3幕、
前にも後にも進めないのであれば、幕を進めるしかありません。
改めてオルテガの「私は、私と私の環境である」という言葉を思い出しています。
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