■節子への挽歌1047:結婚とは相互に自己開示する決断
節子
ダニエル・ウェグナーの「交換記憶」の話をつづけます。
最近、改めて「夫婦とは何だろう」ということを考えるようになりました。
私の周りにも、さまざまな夫婦がいます。
人が、それぞれ違うように、夫婦もまたそれぞれ違います。
それに、夫婦の本当の関係は、外部からは見えてきません。
私たち夫婦もたぶん外から見えているのと実態はかなり違うのでしょう。
でも一つだけ、すべての夫婦に共通のことがあります。
それは、それぞれの生活が相互に影響しあっているということです。
あえて「共に生きている」とは言いませんが、縁のある生き方になっているということです。
しかし、その縁を、みんなどれほど意識しているのか。
そして、その縁をどれほど深めようとしているのか。
そこが気になっています。
私の体験では、縁は際限なく深められるのです。
その気になれば、ですが。
さて、ウェグナーの話です。
ウェグナーは、こう書いています。
「人間関係の発展は相互の自己開示の過程として理解されることが多いが、この過程を相互理解と受容としてとらえるのはむしろロマンチックであり、交換記憶のために必要な前段階としてとらえることも可能だろう」結婚とは、相互に自己開示する決断です。
人にとっての最高のコミュニケーション手法は、自らの弱みを自己開示することだと私は考えていますが、自己のすべてを開示してしまったら、もうその相手と人生を共にするしかありません。
逆に言えば、もし人生を共にするのであれば、自らを徹底的に自己開示するのがいいのです。
もう後には引けませんし、その時点で世界が変わるはずです。
私は「自己開示型」の人間ですが、節子との結婚が、そのことの意味を気づかせてくれたのです。
そして、それが交換記憶の状況を生み出すことにも気づかせてくれました。
私が「交換記憶」なる概念を知ったのは、節子と結婚してから30年ほどたってからですが、その時にその概念をすぐ理解できたのは、節子と暮らしていたおかげです。
長くなりましたので、明日に続けます。
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