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2010/07/24

■節子への挽歌1056:偶然と必然

微視的な次元での偶然による擾乱が、巨視的な自然の選択を経て必然のものとなる。
こう書いたのは、1965年度ノーベル生理学医学賞を受賞したフランスの分子生物学者ジャック・モノーです。 最近、40年前に出た、モノーの「偶然と必然」を読み直しました。 当時、話題になった書物です。 ずっと心に残った本の1冊だったのですが、40年ぶりに読み直してみて、いったいどこに感動したのだろうかと不思議に思うほど退屈でした。 生物学の世界が、この間、大きく進歩したためかもしれません。

しかし、最初に読んだ時に印象に残った文章にマーカーでチェックされていたのですが、その文章のいくつかは、いまも心に響きました。
次の文章などは、節子との別れを体験したいまのほうが、むしろ心底に響きます。

宇宙のなかで起こりうるあらゆる出来事の中で、ある特定の出来事が生ずる先験的な確率はゼロに近い。ところが、宇宙は実在しており、その中で確率が(それが起こる以前には)ほとんどゼロであったある出来事も、たしかに起こるのである。
これはもちろん、生命の誕生、そして人類への進化について語っているのですが、私にとっては、節子との出会い、そして節子のいない世界で生きることが言及されているように感じます。
私と節子と出会う可能性など、あるはずもなかった。
にもかかわらず、私たちは出会いました。
その出会いは、私を残して節子が逝ってしまう出来事につながっていたのです。
出会いが偶然であれば、別れは必然です。
しかし、節子がいなくなってから、必然の出会いと偶然の別れのように思えるようになりました。

モノーは、こうも書いています。

運命はそれがつくられるにつれて書き記されるのであって、事前に書き記されているのではない。
私がこの本を読んだのは1973年ですから、節子と結婚して5年ほどした頃です。
この文章にもマーカーが引かれていましたが、おそらく当時はこの文章の意味を私は理解していなかっただろうと思います。
もししっかりと理解していたら、節子との関係はもっと変わっていたはずです。
別れは回避できたはずです。

それも含めて、私たちは必然の中で多くの偶然を活かしきれなかった。
久しぶりに読んだ「偶然と必然」から得たことは、そうした反省でした。
この過ちを繰り返さないようにしなければいけません。

それにしても、私にとって、節子は偶然だったのか、必然だったのか。
何を読んでも、何を見ても、いきつく問題はいつも同じです。
答えはわかってはいるのですが、考え続けたい問題でもあるのです。

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