■1048:自己開示は新しい物語を起動させる
一応、昨日の続きです。
私がとても幸せだったのは、節子にはなんでもすべて話せたことでした。
おそらく節子もまた、そうだったと思います。
私たちは不思議なほど、自分の世界を開示できたのです。
なぜでしょうか。
それはたぶん「相手を信頼できた」からです。
なぜ信頼できたか。
それは「相性」としかいえません。
いずれにしろ、私たちはすべてを開きました。
それぞれの両親が最初は反対だったのも、それを加速させてくれました。
だれも賛成してくれなければ、当事者である私たちが結束しなければなりません。
自己開示されるとどうなるか。
いやおうなく、その人の人生に巻き込まれます。
自己開示するとどうなるか。
同じように、その相手の人生に巻き込まれるのです。
自己開示してしまえば、相手はもはや自分の世界を知る人ですから無視はできません。
そこから何かが始まります。
自己開示とは、つまりは「新しい物語」のプロローグなのです。
自己開示によって生まれた交換記憶の世界に身を任せると、2人の世界は急速に重なってきます。
古い物語は過去のものとなり、新しい物語がお互いの世界を一つにしていきます。
価値観が次第に共有化されるのは当然です。
しかも、それは2人に留まらないのです。
交換記憶の概念に出会う前に出会ったのが、華厳経の「インドラの網」です。
これに関しては何回か書きました。
交換記憶につなげていえば、交換記憶の世界は無尽に広がっているということです。
そこにたどりつけば、世界は一挙に開けてきます。
空海のようなエネルギーがあれば「虚空蔵」の世界にも入り込めるのです。
そこではもはや彼岸も此岸もない。
しかし、そこにたどりつく前に、節子はいなくなったのです。
交換記憶で成り立っていた世界の瓦解。
放り出された私は、おろおろするしかないわけです。
そして、私は「空海」になりそこなってしまったわけです。
もう少し時間があれば、小空海くらいにはなれたかもしれないのに、なれたのはどうも虚空海のようです。
虚空海と虚空蔵ではまったく違います。
なんだかよくわからない話になってしまいました。
何を書こうとしていたのでしょうか。
困ったものです。
まさに虚空の海。
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