■節子への挽歌1060:佐藤さんは死をどう迎えるのですか?
「佐藤さんは死をどう迎えるのですか?」
昨日、私よりも少し若いIMさんから突然訊ねられました。
一人住まいの高齢者の住まい方について話し合っていた時のことです。
IMさんは、私が信頼する人です。
節子は会っていないでしょうが、節子の葬儀にも来てくれました。
その時のIMさんの表情が、なぜかいまも心にはっきりと残っています。
私は、基本的に自宅で娘に看取られて、最後を迎えるつもりです、といったら、結局、娘さんに迷惑をかけるのですね、と言われてしまいました。
当然、と答えましたが、一緒にいた社会福祉士のOMさんからも、結局、妻や娘なんですよね、と言われてしまいました。
私は、生きるということは他者に迷惑をかけることであり、その意味での迷惑は恥じることもなければ避けることもない、と思っています。
ただ、その迷惑をしっかりと受け止めてもらうためには、日頃から、その人たちからの迷惑を気持ちよく受け止めておかねばならないと考えています。
それが、私が考える「支え合うつながり」であり、「重荷を背負い合う生き方」です。
人のつながりが切れたために、そして社会が壊れてきたために、人の死に方が問題になっているような気がします。
よく、生き方を考えるとは死に方を考えることだという人がいますが、発想が反対です。
しっかり生きていれば、死に方など考える必要はないのです。
節子を見送ってから、そのことに確信を持っています。
「死に方」を口にする医師の人間性を、私は認めることはできません。
佐藤さんは、ピンピンコロリを望んでいるのですね、とも言われました。
ピンピンコロリという言葉を口にする人も少なくありませんが、その言葉にはとても抵抗があります。
生命はそんなに軽いものではありません。
私はもっと誠実に生きるつもりです。
ピンピンコロリなど、口に出すのさえはばかれるほど、私は望んでいません。
生まれるのは自分で決断できませんでしたが、死の時期は自分で決めたいと思います。
自殺という意味ではありませんが、自分の生死は自らの意思でかなり管理できると思っているのです。
節子は誠実に生きました。
だから迷惑を受けたなどと私たち家族は誰も思ってはいません。
私も誠実に生きていますから、どんなに迷惑を与えようが、娘たちはきっと迷惑などとは思わないでしょう。
それくらいの自信がもてないとしたら、それはどこかで生き方が間違っているのです。
とまあ、私はそう考えていますが、娘たちはどう考えているでしょうか。
しかし、生きるということは、そういうことなのです。
そうした基本的なことがおろそかにされているような気がしてなりません。
もっと他者と迷惑をかけあいながら生きていく社会を回復したいものです。
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コメント
何時もブログを読ませて頂いています。 自分の生き方に対する問いかけであり、確認でもありました。
人間は誰も迷惑を掛け合って生きているのだと思います。
私は幸い、健康にめぐまれました。 しかし、様々な面で迷惑を掛け、其れをその都度、誠実に周囲の人々は受け入れてくれ、好い人生を送れたと思います。
夫は何度も病院に入院して、心不全に陥り、死を覚悟した事もありました。
しかし、不思議に蘇生し、脳にも異常は無く、しっかりと立ち上がりました。
此が運命と言うものでしょうか。 今も入院していますが、虫垂炎で、初期に処置すれば簡単だったのですが、自分の責任感の為1週間遅れ、こじらせてしまいました。
その後下血が起こり、腸のポリープを切ったり、次々起こる手術のために意識の混濁や、幻覚が起こり3日ほどズッと詰めてみましたが、一時的で脳も正常に働き、運命を感じました。
生死は運命的で分からないものですが、日々誠実に生き、ある時終焉が訪れるのでしょう。
支え合う社会とは、貴方がおっしゃる様にお互いに迷惑を受け入れる事が支え合う社会だと思います。
投稿: maron | 2010/07/30 06:33